◎極端に奔らず中庸に居れば
『肉体と心は物質の二つの側面だ。』(黄金の華の秘密・和尚P424から引用)と言ったのは、OSHOバグワン。
物質に実体がないことは当たり前だが、心理現象ですら実体がないという立場において、このことを言っている。
これは、釈迦が四禅という冥想状態から涅槃に入ったのだが、原始仏教の遊行経に四禅の説明があり、それが心理現象ですら実体がないという説明となっている。
四禅とは、念を守ることが浄らかであり、純粋そのものという説明である。OSHOバグワンは、この前段で人間は中庸に居て極端を避けねばならないなどと説明しているのだが、その中庸の意味は四禅に居るということではないかと思う。
OSHOバグワンは、太乙金華宗旨のこのパートで、肉体、マインド(頭)、魂と人間を三層構造であるとし、肉体とマインドが極端に奔らず中庸に居れば、時間も止まりマインド(頭)も止まる。その時に太陽はまばゆい光を放つ、と。
極端に奔らず中庸に居れば、と言ってもその中庸は、未発の中のことであり、右と左の真ん中の中という意味ではない。
誠に道教内丹の文書を解釈するのはひどく複雑なもので、簡単なことではない。ここでは中庸が二つの意味で使われているのだが、そんなことは神秘学系の文章では普通。
『肉体と心は物質の二つの側面だ。』(黄金の華の秘密・和尚P424から引用)と言ったのは、OSHOバグワン。
物質に実体がないことは当たり前だが、心理現象ですら実体がないという立場において、このことを言っている。
これは、釈迦が四禅という冥想状態から涅槃に入ったのだが、原始仏教の遊行経に四禅の説明があり、それが心理現象ですら実体がないという説明となっている。
四禅とは、念を守ることが浄らかであり、純粋そのものという説明である。OSHOバグワンは、この前段で人間は中庸に居て極端を避けねばならないなどと説明しているのだが、その中庸の意味は四禅に居るということではないかと思う。
OSHOバグワンは、太乙金華宗旨のこのパートで、肉体、マインド(頭)、魂と人間を三層構造であるとし、肉体とマインドが極端に奔らず中庸に居れば、時間も止まりマインド(頭)も止まる。その時に太陽はまばゆい光を放つ、と。
極端に奔らず中庸に居れば、と言ってもその中庸は、未発の中のことであり、右と左の真ん中の中という意味ではない。
誠に道教内丹の文書を解釈するのはひどく複雑なもので、簡単なことではない。ここでは中庸が二つの意味で使われているのだが、そんなことは神秘学系の文章では普通。