◎私はソーマを飲んだのか
あらゆるオカルト現象を弟子に説明してみせたのは、ダンテス・ダイジ。
それは、説明を聞く方に準備ができていたということはある。
オカルティズムは、エーテル体レベル、アストラル体レベルなど、霊的事象を相手にするものであって、幽霊、UFO、念力、テレパシーなどあらゆる不思議系現象を対象にするものである。一念三千世界というようにそうした不思議現象を相手にするのはきりがなく、どこかで見切るタイミングが必要になる。
つまりオカルト現象の原理の科学的説明ができたとしても、本質の部分とは何も関係がなく、いわば初心者向け客引き口上のようなもの。
だが、聖者たちの宗教修行は、只管打坐を除き、オカルト的な世界を通過していくものであり、オカルト的世界は微細身のレベルではあるが、だんだん深まっていく姿は見られるものである。
シエナの聖女カタリナの例でも、最初はカタレプシーにおける脱魂とイエスとのコンタクトに始まり、だんだん深まり、イエスとの心臓交換にまで至る。全体としては、オカルト現象そのものだが、スティグマタを残すことで、科学的証明ができるようにし、さらに名状できない神の秘密を見たということで、彼女は、見神した。
一連のオカルト現象は、正統的な発達ルートでは、見神見仏に至る。それは序の口に過ぎず、見神者、見仏者は、最終的に神との合体、仏との合体を目指す。
神人合一、禅の十牛図第八人牛倶忘は合体だが、それは組織宗教においては、しばしば教祖の上を行く体験となるので、物議をかもし、異端とされたり排撃されたりする。それは社会的側面であって、本人にとっては、世界全体が自分であって、自分が世界となるという体験である。
これは見ている自分を喪失するという状態であり、古代インドでは「私はソーマを飲んだのか」という言葉にその実感を見ることができる。これは、自分と世界の逆転であり、タロットでは、吊るされた男である。
この逆転、体験とは言えない体験を自分で証明するのが、今の時代に課せられた人類のテーマである。
あらゆるオカルト現象を弟子に説明してみせたのは、ダンテス・ダイジ。
それは、説明を聞く方に準備ができていたということはある。
オカルティズムは、エーテル体レベル、アストラル体レベルなど、霊的事象を相手にするものであって、幽霊、UFO、念力、テレパシーなどあらゆる不思議系現象を対象にするものである。一念三千世界というようにそうした不思議現象を相手にするのはきりがなく、どこかで見切るタイミングが必要になる。
つまりオカルト現象の原理の科学的説明ができたとしても、本質の部分とは何も関係がなく、いわば初心者向け客引き口上のようなもの。
だが、聖者たちの宗教修行は、只管打坐を除き、オカルト的な世界を通過していくものであり、オカルト的世界は微細身のレベルではあるが、だんだん深まっていく姿は見られるものである。
シエナの聖女カタリナの例でも、最初はカタレプシーにおける脱魂とイエスとのコンタクトに始まり、だんだん深まり、イエスとの心臓交換にまで至る。全体としては、オカルト現象そのものだが、スティグマタを残すことで、科学的証明ができるようにし、さらに名状できない神の秘密を見たということで、彼女は、見神した。
一連のオカルト現象は、正統的な発達ルートでは、見神見仏に至る。それは序の口に過ぎず、見神者、見仏者は、最終的に神との合体、仏との合体を目指す。
神人合一、禅の十牛図第八人牛倶忘は合体だが、それは組織宗教においては、しばしば教祖の上を行く体験となるので、物議をかもし、異端とされたり排撃されたりする。それは社会的側面であって、本人にとっては、世界全体が自分であって、自分が世界となるという体験である。
これは見ている自分を喪失するという状態であり、古代インドでは「私はソーマを飲んだのか」という言葉にその実感を見ることができる。これは、自分と世界の逆転であり、タロットでは、吊るされた男である。
この逆転、体験とは言えない体験を自分で証明するのが、今の時代に課せられた人類のテーマである。