◎クンダリーニ、ガネーシャの鼻、アスクレピオスの杖の蛇
仏教では、淫欲食欲など物質を対象に欲望する欲界があり、清らかで純粋な物質を欲望する色界があり、精神的なものを欲望する無色界があるとする。これらに共通する考え方が、意識、思念は現実化するものであり、エネルギーは、精妙な側の意識から粗雑な側の意識に働きかけて物質を現実化するものだということ。
意識とは、その現実形成力ゆえにエネルギーである。
想念とか感情とかのままで現実化する以前の意識は、エネルギーの形態としてはやや精妙であって、その中は意識、無意識に区分され、個人の意識の層の奥には、様々なレベルでの集合的無意識がある(家系の集合的無意識、地域の集合的無意識、組織の集合的無意識、人種の集合的無意識、国家の集合的無意識等々)
このあたりは、エネルギーの活躍の場の区分。
神と人との関係を見るに、神も、観察者(見る人)もどちらもエネルギー(力)であって、最終ステージでは、観察者の立場を棄てることを求められ、その彼我のエネルギーは合一されることを望む。
これが、意識であるエネルギーの最高次の姿だが、個なるエネルギーの姿をクンダリーニとよび、蛇と呼び、ガネーシャの鼻と呼び、一気通貫と呼び、アスクレピオスの杖の蛇と呼ぶ。これは筒を上昇すようなので、筒男は古事記で登場。
かくの如く、神秘家、スピリチュアリストの間では、エネルギーは意識であるというのは、常識の一部である。
仏教では、淫欲食欲など物質を対象に欲望する欲界があり、清らかで純粋な物質を欲望する色界があり、精神的なものを欲望する無色界があるとする。これらに共通する考え方が、意識、思念は現実化するものであり、エネルギーは、精妙な側の意識から粗雑な側の意識に働きかけて物質を現実化するものだということ。
意識とは、その現実形成力ゆえにエネルギーである。
想念とか感情とかのままで現実化する以前の意識は、エネルギーの形態としてはやや精妙であって、その中は意識、無意識に区分され、個人の意識の層の奥には、様々なレベルでの集合的無意識がある(家系の集合的無意識、地域の集合的無意識、組織の集合的無意識、人種の集合的無意識、国家の集合的無意識等々)
このあたりは、エネルギーの活躍の場の区分。
神と人との関係を見るに、神も、観察者(見る人)もどちらもエネルギー(力)であって、最終ステージでは、観察者の立場を棄てることを求められ、その彼我のエネルギーは合一されることを望む。
これが、意識であるエネルギーの最高次の姿だが、個なるエネルギーの姿をクンダリーニとよび、蛇と呼び、ガネーシャの鼻と呼び、一気通貫と呼び、アスクレピオスの杖の蛇と呼ぶ。これは筒を上昇すようなので、筒男は古事記で登場。
かくの如く、神秘家、スピリチュアリストの間では、エネルギーは意識であるというのは、常識の一部である。