◎ケタミンと自我の喪失感
薬物ジャングルの探検者ティモシー・リアリーが妙なことを書いている。
『ケタミンが引き起こす遊体離脱体験はしばしば浮遊感を伴い、トンネルを通り抜けている感じに近いという。またどんなに高用量のサイケデリック・ドラッグも自我の喪失感では、ケタミン投与にかなわない。それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報がどうやって通り抜けていくのか、それをR.U.シリアスは不思議に思ったという。ケタミン体験において死はとてもリアルだ。この世界と次の世界との間の薄い膜を肌で感じることができ、しかもそれは恐ろしくない。他のサイケデリック・ドラッグでの死で体験するようなパニック感が、ケタミンの場合には皆無だ。ケタミン体験の最中は、置き去りにしてきた世界のことがほとんど気にならない。』
(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社P220から引用)
ティモシー・リアリーは、LSDの人間に対する可能性を人道的に宗教的目的で探求し続けていた学者さんだったが、米国官憲に睨まれて、非常に不遇な後半生を送った。
ケタミンは、Wikipediaにも出ているが、麻酔薬でもある一方「麻薬及び向精神薬取締法の麻薬」でもあって一般人が濫用することはできない。
ティモシー・リアリーは、薬物によって自我の死を体験するという目的があって、ほとんど生還できるが如く薬物使用による死の体験からの帰還を描いている。だが、それは生還したからこそ語れるのであって、分量を誤って生と死の「薄い膜」の向こう側に行ってしまって帰れなかった人もいるのだろうと思う。
なにより、このケタミン体験の記述はティモシー・リアリーにして伝聞形なのだ。
薬物ヨーガとはソーマ・ヨーガ。インド・ペルシャが同一文化圏であった古代、ベーダにおいては、ソーマなる向精神薬がニルヴァーナである宇宙の全情報を開示することが賛歌として歌われるほど主要な冥想手法であった。
現代のソーマ・ヨーガと言えば、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスとその弟子のカルロス・カスタネダ。
カスタネダは、薬物による死(精神的死)を迎えるに際し、かつて出会った人々に別れを告げに行くなど相当に事前準備をしたものだ。
死を迎えるというのは、まず心理的抵抗が怒りとして現れるなどキュブラーロスの研究であるように一筋縄ではいかない。
いかに効き目の強烈な薬物を使用しても「置き去りにしてきた世界」を去ってしまう心理的反発は少なからぬものがある。
ケタミンを踏み台に感情的抵抗なくニルヴァーナに入っていくというのは、社会の一員、家族の一員としての自分にとっては、容易に受け入れがたいところがあるように感じる。
ところがそのような行き方も是であるという考え方もあるのだろうと思う。
人間が鳥になるのにぐずぐずする必要はないという考え方。
その彼は、人間を卒業する時期だったのか、そうではなかったのかはよくよく冥想してみたい。
薬物ジャングルの探検者ティモシー・リアリーが妙なことを書いている。
『ケタミンが引き起こす遊体離脱体験はしばしば浮遊感を伴い、トンネルを通り抜けている感じに近いという。またどんなに高用量のサイケデリック・ドラッグも自我の喪失感では、ケタミン投与にかなわない。それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報がどうやって通り抜けていくのか、それをR.U.シリアスは不思議に思ったという。ケタミン体験において死はとてもリアルだ。この世界と次の世界との間の薄い膜を肌で感じることができ、しかもそれは恐ろしくない。他のサイケデリック・ドラッグでの死で体験するようなパニック感が、ケタミンの場合には皆無だ。ケタミン体験の最中は、置き去りにしてきた世界のことがほとんど気にならない。』
(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社P220から引用)
ティモシー・リアリーは、LSDの人間に対する可能性を人道的に宗教的目的で探求し続けていた学者さんだったが、米国官憲に睨まれて、非常に不遇な後半生を送った。
ケタミンは、Wikipediaにも出ているが、麻酔薬でもある一方「麻薬及び向精神薬取締法の麻薬」でもあって一般人が濫用することはできない。
ティモシー・リアリーは、薬物によって自我の死を体験するという目的があって、ほとんど生還できるが如く薬物使用による死の体験からの帰還を描いている。だが、それは生還したからこそ語れるのであって、分量を誤って生と死の「薄い膜」の向こう側に行ってしまって帰れなかった人もいるのだろうと思う。
なにより、このケタミン体験の記述はティモシー・リアリーにして伝聞形なのだ。
薬物ヨーガとはソーマ・ヨーガ。インド・ペルシャが同一文化圏であった古代、ベーダにおいては、ソーマなる向精神薬がニルヴァーナである宇宙の全情報を開示することが賛歌として歌われるほど主要な冥想手法であった。
現代のソーマ・ヨーガと言えば、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスとその弟子のカルロス・カスタネダ。
カスタネダは、薬物による死(精神的死)を迎えるに際し、かつて出会った人々に別れを告げに行くなど相当に事前準備をしたものだ。
死を迎えるというのは、まず心理的抵抗が怒りとして現れるなどキュブラーロスの研究であるように一筋縄ではいかない。
いかに効き目の強烈な薬物を使用しても「置き去りにしてきた世界」を去ってしまう心理的反発は少なからぬものがある。
ケタミンを踏み台に感情的抵抗なくニルヴァーナに入っていくというのは、社会の一員、家族の一員としての自分にとっては、容易に受け入れがたいところがあるように感じる。
ところがそのような行き方も是であるという考え方もあるのだろうと思う。
人間が鳥になるのにぐずぐずする必要はないという考え方。
その彼は、人間を卒業する時期だったのか、そうではなかったのかはよくよく冥想してみたい。