◎第四の気づきである無心へ
第一の気づきは、思考という客体を見つめるが、第二の気づきは思考も思考している自分も見つめる。主体と客体両方に注意を払い続ける。OSHOバグワンによれば、これがグルジェフの言うところの自己想起。
第一の気づきでもって、記憶から非記憶へと進み、第二の気づきで頭(マインド)は、非発生となる。
第二の気づきでは、集中力を主体と客体に向け、集中力を使っているが、第三の気づきでは、主体を忘れ、客体を忘れ、集中をすべて落とす。
第三の気づきでは、ただ覚醒しているだけ。これが第四の気づきである無心へと導く。
無心こそ成就であり、ニルヴァーナであり、至高善。
(以上参照:タントラの変容/和尚/市民出版社P216-220)
この和訳では、非記憶とか非発生と訳しているが、不記憶とか不発生の方が意味が取りやすいように思う。
全体としてみれば、セックスをスタート地点にして始まった冥想修行は、アニマ、アニムスの内的結婚を垂直軸にし、最後のホームストレッチで、改めて気づきの性質が問われることになる。
これが一本道の冥想テクニックとして成立しているのか、そうではないのかは聖者サラハのみが知る。この経文は聖者サラハが俗人である王に対して語った言葉であり、王のニーズがこうした説明を喚起したという側面はある。
臨済に当てれば、こんなところだろうか。
有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)・・・・第一の気づき。
有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)・・・・第二の気づき
有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)・・・・第三の気づき
禅ではセックス禁止だが、頂上近くなるとタントラと同じようなことを云う。
第一の気づきは、思考という客体を見つめるが、第二の気づきは思考も思考している自分も見つめる。主体と客体両方に注意を払い続ける。OSHOバグワンによれば、これがグルジェフの言うところの自己想起。
第一の気づきでもって、記憶から非記憶へと進み、第二の気づきで頭(マインド)は、非発生となる。
第二の気づきでは、集中力を主体と客体に向け、集中力を使っているが、第三の気づきでは、主体を忘れ、客体を忘れ、集中をすべて落とす。
第三の気づきでは、ただ覚醒しているだけ。これが第四の気づきである無心へと導く。
無心こそ成就であり、ニルヴァーナであり、至高善。
(以上参照:タントラの変容/和尚/市民出版社P216-220)
この和訳では、非記憶とか非発生と訳しているが、不記憶とか不発生の方が意味が取りやすいように思う。
全体としてみれば、セックスをスタート地点にして始まった冥想修行は、アニマ、アニムスの内的結婚を垂直軸にし、最後のホームストレッチで、改めて気づきの性質が問われることになる。
これが一本道の冥想テクニックとして成立しているのか、そうではないのかは聖者サラハのみが知る。この経文は聖者サラハが俗人である王に対して語った言葉であり、王のニーズがこうした説明を喚起したという側面はある。
臨済に当てれば、こんなところだろうか。
有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)・・・・第一の気づき。
有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)・・・・第二の気づき
有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)・・・・第三の気づき
禅ではセックス禁止だが、頂上近くなるとタントラと同じようなことを云う。