◎本当に迷ったなら必ず師が現れる
百匹の羊を持っている人が、一匹迷子になった時には必ず捜しに行く(ルカの福音書(15:1-7)とマタイの福音書(18:12-14))。
羊飼いは、正師である。百匹の羊はまだ悟っていない人全体。そのうち九十九匹の羊は、個人としての自我が未発達で、現代で言えばマスコミ、スマホなどのあらゆるマインド・コントロールによって、心をおもちゃにされている人。これはタロットカード78枚でいえば、愚者と魔術師と吊るされた人を除く75枚がこれに該当する。
道に迷った一匹は、心の正統な発達過程を経て、個なる自我が確立した人。
今の教育は、自己に合った職業捜しということで、自己実現が重要なファクターになっている。
ところが、金をもうけたり、地位が上がったり、スポーツ・ヒーローになる人は極く一部であって、30代までには大半の人が、失望、失意をないまぜにした複雑な気持ちで次第に老いの道を歩む。
かたや社会的成功の願望を実現しているその成功者も一皮むけば、みじめで不安な内面を抱えていることには、変わりない。社会的成功者の側も実は九十九匹の側。
そうした中で、真剣に自分を見つめることを始めて日々冥想する人がいる。これが、道に迷った羊。
九十九匹の羊は、精神が熟成しきる時を待ち、熟成しきった一匹だけが壁の向こう側に飛び出す可能性を有している。
だからこそマスターである羊飼いは、その一匹を捜しに行くのだ。
新約聖書では、百匹中の一匹いなくなったら、もったいない精神を発揮して、捜しに行くなどと、通俗的動機に落としているが、わざわざ聖書に通俗的教訓を描く必要はなかったろうに。
また九十九匹はどうでもよいなどと書くと、組織宗教の布教シーンではまずいことになるので、そんなニュアンスにしない。
あなたが本当に迷ったなら、必ず正しい師が現れると言っているだけだ。
百匹の羊を持っている人が、一匹迷子になった時には必ず捜しに行く(ルカの福音書(15:1-7)とマタイの福音書(18:12-14))。
羊飼いは、正師である。百匹の羊はまだ悟っていない人全体。そのうち九十九匹の羊は、個人としての自我が未発達で、現代で言えばマスコミ、スマホなどのあらゆるマインド・コントロールによって、心をおもちゃにされている人。これはタロットカード78枚でいえば、愚者と魔術師と吊るされた人を除く75枚がこれに該当する。
道に迷った一匹は、心の正統な発達過程を経て、個なる自我が確立した人。
今の教育は、自己に合った職業捜しということで、自己実現が重要なファクターになっている。
ところが、金をもうけたり、地位が上がったり、スポーツ・ヒーローになる人は極く一部であって、30代までには大半の人が、失望、失意をないまぜにした複雑な気持ちで次第に老いの道を歩む。
かたや社会的成功の願望を実現しているその成功者も一皮むけば、みじめで不安な内面を抱えていることには、変わりない。社会的成功者の側も実は九十九匹の側。
そうした中で、真剣に自分を見つめることを始めて日々冥想する人がいる。これが、道に迷った羊。
九十九匹の羊は、精神が熟成しきる時を待ち、熟成しきった一匹だけが壁の向こう側に飛び出す可能性を有している。
だからこそマスターである羊飼いは、その一匹を捜しに行くのだ。
新約聖書では、百匹中の一匹いなくなったら、もったいない精神を発揮して、捜しに行くなどと、通俗的動機に落としているが、わざわざ聖書に通俗的教訓を描く必要はなかったろうに。
また九十九匹はどうでもよいなどと書くと、組織宗教の布教シーンではまずいことになるので、そんなニュアンスにしない。
あなたが本当に迷ったなら、必ず正しい師が現れると言っているだけだ。