◎精神的な道に入る
非正規労働者を中心に失業者が激増している。雇用継続できている者も賃金カット、ボーナスカットで苦しむ者が多い。
仕事がなくて家にいるのはつらいものだ。坐って冥想する習慣も若い時から身についていないと、中高年になってからではなかなか大変かもしれない。
だが、健康食品、サプリ、パワーストーン屋さんは世にあふれ、駅前などの便利なところには、ハタ・ヨーガのスタジオが多い。こうした、ロハスな入り口の先には必ず冥想がある。
ロハスは功利的なロハスであっては、いけないのだが、肉体の健康と精神の安定という功利目的から入っても、真正の真理、善、美はいずれもメリット・デメリットから離れたところにあることを知るようになる。
このように最初は、メリットや健康は経済的だという金の観点から入るかもしれない。あるいはオカルト、超能力・霊能力指向から入るかもしれない。
だがそうした、初期の興奮は乗り越えなければいけない。そうしないと人生に対する自分の見方を変えることができないからだ。
どんな形であれ、感情的な興奮は、人の眼を眩ませ、あるがままに自分の人生を見たり受け入れたりすることから遠ざける。
感情的興奮は、出世や金儲けや恋愛や結婚やセックスや安定した生活について回る。そういうのも自己実現、自分にフィットした生き方だが、コロナ後の不況の中では、それを実現できずに失意に終わる人が激増する。
人はこのように自分が見たい形で自分の人生を見たがるのだが、そのような見方は、興奮と失意に裏打ちされた見方であって、それを棄てないと自分の本質をありのままに見ることはできない。
ところが、政治団体や組織宗教(カルトも含め)に係わると、ますます興奮と失意、恐怖、不安を巧妙に操られ、いつしか本当の自分に出会うのと逆方向に行っていることに気がつくことになる。
厳密に言えば、自分の服装を変えたり、出家したり、教団に入信したり、禁欲的な生活をしたりすることですら、感情的興奮から抜ける手段にはなり得ない。
最近は皆スマホを持ち、スマホによって、メリット、デメリット、好奇心、不安、恐怖、プチ満足と、感情と知性を操られ、またスマホのない人はテレビで自分が全くの情報操作の受け手に成り下がる。
冥想はそうしたものの対極にあるが、現代人の視野には入って来にくい。
禅者がよく読む信心銘に、ただ、えり好み、好き嫌いをしなければ、それでよいのだ、とある。
そこが、坐る道、求道の道のひとつの到達点なのだ。
非正規労働者を中心に失業者が激増している。雇用継続できている者も賃金カット、ボーナスカットで苦しむ者が多い。
仕事がなくて家にいるのはつらいものだ。坐って冥想する習慣も若い時から身についていないと、中高年になってからではなかなか大変かもしれない。
だが、健康食品、サプリ、パワーストーン屋さんは世にあふれ、駅前などの便利なところには、ハタ・ヨーガのスタジオが多い。こうした、ロハスな入り口の先には必ず冥想がある。
ロハスは功利的なロハスであっては、いけないのだが、肉体の健康と精神の安定という功利目的から入っても、真正の真理、善、美はいずれもメリット・デメリットから離れたところにあることを知るようになる。
このように最初は、メリットや健康は経済的だという金の観点から入るかもしれない。あるいはオカルト、超能力・霊能力指向から入るかもしれない。
だがそうした、初期の興奮は乗り越えなければいけない。そうしないと人生に対する自分の見方を変えることができないからだ。
どんな形であれ、感情的な興奮は、人の眼を眩ませ、あるがままに自分の人生を見たり受け入れたりすることから遠ざける。
感情的興奮は、出世や金儲けや恋愛や結婚やセックスや安定した生活について回る。そういうのも自己実現、自分にフィットした生き方だが、コロナ後の不況の中では、それを実現できずに失意に終わる人が激増する。
人はこのように自分が見たい形で自分の人生を見たがるのだが、そのような見方は、興奮と失意に裏打ちされた見方であって、それを棄てないと自分の本質をありのままに見ることはできない。
ところが、政治団体や組織宗教(カルトも含め)に係わると、ますます興奮と失意、恐怖、不安を巧妙に操られ、いつしか本当の自分に出会うのと逆方向に行っていることに気がつくことになる。
厳密に言えば、自分の服装を変えたり、出家したり、教団に入信したり、禁欲的な生活をしたりすることですら、感情的興奮から抜ける手段にはなり得ない。
最近は皆スマホを持ち、スマホによって、メリット、デメリット、好奇心、不安、恐怖、プチ満足と、感情と知性を操られ、またスマホのない人はテレビで自分が全くの情報操作の受け手に成り下がる。
冥想はそうしたものの対極にあるが、現代人の視野には入って来にくい。
禅者がよく読む信心銘に、ただ、えり好み、好き嫌いをしなければ、それでよいのだ、とある。
そこが、坐る道、求道の道のひとつの到達点なのだ。