◎今生では、二度と会わない
チベットにインド後期密教系のヨーガを導入したマルパは、弟子のミラレパに法を伝えた後、去らせている。ミラレパの弟子ガムポパも法を伝授された後は二度と会うことはなかった。
禅の老師にしても、一旦大悟して後はかつての老師を訪ねるシーンはあまりないが、弟子を介して批評するシーンはよくある。それにしても会いに行くことはあるのかも知れぬなどと、俗物は想像を巡らすのだが、覚者の行動は原則天意、天機に従うというルールを思えば、茶飲み話をしにかつての師匠を訪ねるなどということはないのではないだろうか。
特に求道系求法系の関係ではそれが明確なのではないか。
空海は長安の恵果に伝法されて後、二度と会うことはなかった。遠いから会わなかったというのであれば、遠くても会いに行った空海は何なのかという理屈もある。
だから人が特定の人に出会う回数は自ずから定まっていると思う。それは、師だけでなく、恋人、夫婦との出会いだってそんなところがある。
とくにスピリチュアル系の本物のマスターとの別れでは「今生では、二度と会わない」感がありありなので、よくある恋人や異性パートナーとの生き別れとは、全く異なった風光になる。
勿論金儲け主体の偽宗教では、「何度でも来てお金を払いなさい」ということなので、そんなことは想像もつかない人もあるかもしれない。
おお、石ころの心よ。
チベットにインド後期密教系のヨーガを導入したマルパは、弟子のミラレパに法を伝えた後、去らせている。ミラレパの弟子ガムポパも法を伝授された後は二度と会うことはなかった。
禅の老師にしても、一旦大悟して後はかつての老師を訪ねるシーンはあまりないが、弟子を介して批評するシーンはよくある。それにしても会いに行くことはあるのかも知れぬなどと、俗物は想像を巡らすのだが、覚者の行動は原則天意、天機に従うというルールを思えば、茶飲み話をしにかつての師匠を訪ねるなどということはないのではないだろうか。
特に求道系求法系の関係ではそれが明確なのではないか。
空海は長安の恵果に伝法されて後、二度と会うことはなかった。遠いから会わなかったというのであれば、遠くても会いに行った空海は何なのかという理屈もある。
だから人が特定の人に出会う回数は自ずから定まっていると思う。それは、師だけでなく、恋人、夫婦との出会いだってそんなところがある。
とくにスピリチュアル系の本物のマスターとの別れでは「今生では、二度と会わない」感がありありなので、よくある恋人や異性パートナーとの生き別れとは、全く異なった風光になる。
勿論金儲け主体の偽宗教では、「何度でも来てお金を払いなさい」ということなので、そんなことは想像もつかない人もあるかもしれない。
おお、石ころの心よ。