◎それが起きるにまかせ執着しない
肉体上には検出されず、エーテル体からメンタル体までに検出されるチャクラ。数も七つと定まっているわけではない。世にチャクラ本は多いが、それは一体どのボディのことを語っているのか。
ボン教でのチャクラを開くことについての解説。
『しかし、チャクラが開く際に必ずしも何かしらの体験が起こるわけではない。特別なことが起こらないのが普通だ。チャクラを深いレベルで開くということは、感情やイメージと取り組むためではない。
この認識のうえで、何か特別な体験が生じた場合は、それが起きるにまかせ、そのことに執着しないようにしなさい。起きるにまかせ、消えていくにまかせなさい。何かが起きるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。』
(チベッタン・ヒーリング/テンジン・ワンギェル・リンポチェ/地湧社P255-256から引用)
こうした修行では、まず空を目指す。チベット密教では、空性とか空の体験とか呼んで、里程標としている。
人間は理解できない事象が起こると、想像力を駆使して理屈をつけて納得させようとする癖がついている。
只管打坐でも、雑念妄想は起きるにまかせ、そのことに執着しないものだ。
肉体上には検出されず、エーテル体からメンタル体までに検出されるチャクラ。数も七つと定まっているわけではない。世にチャクラ本は多いが、それは一体どのボディのことを語っているのか。
ボン教でのチャクラを開くことについての解説。
『しかし、チャクラが開く際に必ずしも何かしらの体験が起こるわけではない。特別なことが起こらないのが普通だ。チャクラを深いレベルで開くということは、感情やイメージと取り組むためではない。
この認識のうえで、何か特別な体験が生じた場合は、それが起きるにまかせ、そのことに執着しないようにしなさい。起きるにまかせ、消えていくにまかせなさい。何かが起きるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。』
(チベッタン・ヒーリング/テンジン・ワンギェル・リンポチェ/地湧社P255-256から引用)
こうした修行では、まず空を目指す。チベット密教では、空性とか空の体験とか呼んで、里程標としている。
人間は理解できない事象が起こると、想像力を駆使して理屈をつけて納得させようとする癖がついている。
只管打坐でも、雑念妄想は起きるにまかせ、そのことに執着しないものだ。