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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり-1

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◎罪重なった積悪の清算

積善といえば、ネットでは、群馬県四万温泉の積善館と長野の清酒積善が真っ先にヒットする。また積善といえば、その典型として宝くじやロトやギャンブルを思い起すのだが、高額をゲットできた者が最後まで幸福に生きるかどうかは知らない。

何十年か前に四国の金比羅さんで黄金色の『幸福の黄色いお守り』を買って不審に思い、売り手の青年に「幸福とはどういう意味ですか」と問うたことを思い出す。

思わぬ幸福があると言えば、この積善は、万人ののっぴきならないところ。

以下は、易経の坤為地の文言に出ている文章。
毎日善い行いを積み重ねている家には、思わぬ慶びがある。一方毎日不善の行いを積み重ねている家には、思わぬ災いがある。

これは、そのとおりではあるが、積善には積み方の作法があることは、イエスや積善家の袁了凡が指摘するところである。

さはさりながら、人間は肉体を持っている以上、やむを得ず罪を犯さざるを得ないシチュエーションがある。袁了凡のような道教では、積善と積悪を相互に相殺して差引清算をする。古神道では、そういった罪を贖うものとして、大祓というものがある。一方キリスト教では、その罪の意識を内的圧力として大悟に至るモチベーションとして活用することが広く行われている。

そして一族に一人覚者が出れば九族昇天するというタイプのカルマの見方もあるが、それはカルマ・ヨーガであって、時間がかかるものであって、この危機が切迫した現代にマッチしたやり方かどうかは別の問題である。

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