◎贖罪としての大祓
さて大祓には3種ある(出口王仁三郎著作集第二巻P63)。大潔斎、中潔斎、小潔斎である。
一身を清め一家を清めるは小潔斎。国土を潔斎するは中潔斎。天地の妖気を払い天地乾坤を清めるのは大潔斎。ところが、自分だけ小潔斎をして、国家も地球全体も潔斎を行わないのであれば、腐敗しよどんだ空気の中でいくら自分だけ小潔斎をしても、健康な生活をすることが不可能である。よって、中潔斎、大潔斎も為されて初めて、身を清め、一家を清めることが完全にできる。
出口王仁三郎の説明では、大潔斎は大祓であって、天地の潔斎である。天地の潔斎とは換言すれば、天神地祇を真実に祭祀する事である。(真実の二字に留意せよ)祭祀はマツルであって、マツルは真釣るである。天神地祇の御神慮のままをこの土に真釣合すことである。真実に天地の潔斎を成就させるには、真釣の他に手段はない。大祓は即ち天地の真釣なり、祭祀なり。
このように大潔斎たる大祓は、俗人の知るべからざる御神業であって、紙上公開不可を、出口王仁三郎は宣言している。
マクロ的に見れば、地球全体世界全体の日々積み重ねる罪悪および各国家の日々積み重ねる罪悪は、妥当に適正に祓い清浄化できぬままに積み上がっているが、それを一部のごくわずかな求道者が小潔斎で少々清浄化を試みてはいるが、多勢に無勢。
悪とは、自分がアートマンたる全体から離れて、逆方向に個なる自我を強化する方向なのだが、世上の『便利と経済的メリット』を求める行動は一般に自我を強化する方向であって、悪に分類される。そのように小悪が70億人によって日々積み重ねられていく姿が現在の姿ということになる。
世の中がこのように大きく悪の累積に傾けば、本来少々の悪と圧倒的な善というバランスが真釣の真義であるはずだが、その姿からは大きくズレたということになり、やがて総決算の天地大祓が発動するであろうとは容易に想像されるところである。
マスコミもSNSも嘘とフェイクが多くなり、中潔斎、大潔斎がますます必要な時節だが、一向に国も世界も動く気配がないのは恐ろしいことである。
※易経の坤為地の文言から。
『大意:
文言に曰く、坤は至柔だが、動くと剛である。静かさの極みにして徳は十全である。タイミングが後れれば、イニシアチブを取って常に主流である。万物を含んでその影響力は光(おお)いなるものがある。坤道は従順なることよ。天を承(う)けて時に従って行っていく。
積善の家には必ず余慶あるもの。積不善の家には必ず思わぬ災いがあるもの。臣であってその君を殺害し、子にしてその父を殺害するは、一朝一夕の突然の出来事ではない。その由って来るところの、カルマ、因縁はだんだんと出来上がってきたところのものである。早く対処せずにいたので、小が積み重なり大となったものである。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順を追って大きなものに成長したものである。』
『訓読:文言に曰く、坤は至柔にして動くや剛なり。至静にして徳方なり。後るれば主を得て常あり。万物を含んで化光(おお)いなり。坤道はそれ順なるか。天を承けて時に行う。
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。臣にしてその君を弑し、子にしてその父を弑するは、一朝一夕の故にあらず。その由って来るところのもの漸なり。これを弁じて早く弁ぜざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順なるを言えるなり。』
さて大祓には3種ある(出口王仁三郎著作集第二巻P63)。大潔斎、中潔斎、小潔斎である。
一身を清め一家を清めるは小潔斎。国土を潔斎するは中潔斎。天地の妖気を払い天地乾坤を清めるのは大潔斎。ところが、自分だけ小潔斎をして、国家も地球全体も潔斎を行わないのであれば、腐敗しよどんだ空気の中でいくら自分だけ小潔斎をしても、健康な生活をすることが不可能である。よって、中潔斎、大潔斎も為されて初めて、身を清め、一家を清めることが完全にできる。
出口王仁三郎の説明では、大潔斎は大祓であって、天地の潔斎である。天地の潔斎とは換言すれば、天神地祇を真実に祭祀する事である。(真実の二字に留意せよ)祭祀はマツルであって、マツルは真釣るである。天神地祇の御神慮のままをこの土に真釣合すことである。真実に天地の潔斎を成就させるには、真釣の他に手段はない。大祓は即ち天地の真釣なり、祭祀なり。
このように大潔斎たる大祓は、俗人の知るべからざる御神業であって、紙上公開不可を、出口王仁三郎は宣言している。
マクロ的に見れば、地球全体世界全体の日々積み重ねる罪悪および各国家の日々積み重ねる罪悪は、妥当に適正に祓い清浄化できぬままに積み上がっているが、それを一部のごくわずかな求道者が小潔斎で少々清浄化を試みてはいるが、多勢に無勢。
悪とは、自分がアートマンたる全体から離れて、逆方向に個なる自我を強化する方向なのだが、世上の『便利と経済的メリット』を求める行動は一般に自我を強化する方向であって、悪に分類される。そのように小悪が70億人によって日々積み重ねられていく姿が現在の姿ということになる。
世の中がこのように大きく悪の累積に傾けば、本来少々の悪と圧倒的な善というバランスが真釣の真義であるはずだが、その姿からは大きくズレたということになり、やがて総決算の天地大祓が発動するであろうとは容易に想像されるところである。
マスコミもSNSも嘘とフェイクが多くなり、中潔斎、大潔斎がますます必要な時節だが、一向に国も世界も動く気配がないのは恐ろしいことである。
※易経の坤為地の文言から。
『大意:
文言に曰く、坤は至柔だが、動くと剛である。静かさの極みにして徳は十全である。タイミングが後れれば、イニシアチブを取って常に主流である。万物を含んでその影響力は光(おお)いなるものがある。坤道は従順なることよ。天を承(う)けて時に従って行っていく。
積善の家には必ず余慶あるもの。積不善の家には必ず思わぬ災いがあるもの。臣であってその君を殺害し、子にしてその父を殺害するは、一朝一夕の突然の出来事ではない。その由って来るところの、カルマ、因縁はだんだんと出来上がってきたところのものである。早く対処せずにいたので、小が積み重なり大となったものである。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順を追って大きなものに成長したものである。』
『訓読:文言に曰く、坤は至柔にして動くや剛なり。至静にして徳方なり。後るれば主を得て常あり。万物を含んで化光(おお)いなり。坤道はそれ順なるか。天を承けて時に行う。
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。臣にしてその君を弑し、子にしてその父を弑するは、一朝一夕の故にあらず。その由って来るところのもの漸なり。これを弁じて早く弁ぜざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順なるを言えるなり。』