◎戦狼外交と監視社会の対極
今や戦狼外交で世界の鬼っ子になっている中国だが、中国には意外なことに鼓腹撃壌という至福千年を予定した故事がある。
『大意:
帝尭陶唐氏は帝嚳(ていこく)の子である。
その仁徳は天のようであり、その知力は神のようであった。
近づくと太陽のようで、遠く望めば雲のようであった。
平陽を都としていた。
かやぶきの屋根の端は切りそろえず(簡素にし)、
土で作った階段は三段だけだった(奢侈を戒めた)。
天下を治めて五十年になった。
(帝尭には)天下がよく治まっているのか、治まっていないのか、
民衆が自分を天子として戴くことを願っているのか、
願っていないのかが分からなかった。
左右に仕える家臣に尋ねても分からない。
朝廷の役人に尋ねても分からない。
在野の者に尋ねても分からない。
そこで卑しい身なりで街中に出かけていくと、童謡が耳に入ってきた。
「われわれ民衆が生活できるのは、
すべてあなたの最高の徳のおかげです。
知らず知らずのうちに、天子のルールに従っている」と。
老人がいた。口中に食物をほおばり、腹つづみを打ち、
足で地面を踏み鳴らして歌って言った、
「日が出れば働き、日が沈めば休む。
井戸を掘って水を飲み、田畑を耕して食べる。
天子の力がどうして私に関わりがあろうか、何も関わりない」と。』(十八史略)
鼓腹撃壌なのは、この老人の様子だが、伝統的には苛斂誅求のない政治を指しているものと解釈されている。要するに中国人特有の個人主義的な行き方を時の政府に邪魔されないところだけが強調されている。
ところが中国人は、砂のようなもので袋に詰めて強く縛っていればまとまっているが、一旦緩めるとまとまるものではない。中央政権が弱まると群雄割拠や無政府状態が現出しやすいものなのである。
よって民衆が無防備に食事を口に頬張って歌うというのは、この時代の共産主義政権や過去の君主独裁政権のことではないと思う。
民衆すべてが大道をわきまえ、日々行った善行悪事を功過格で累計して反省しなくとも、善行のみを行い、悪事を行わない。そうした社会でのみ鼓腹撃壌があり得るのだと思う。
現代中国の、金も行動も思想も信教も移動も転居も子供の数もすべて、監視されコントロールされた社会では、鼓腹撃壌というのは悪い冗談にしか思えないだろうが、中国の本源的理想社会、桃源郷とはそういうものだと思う。
『書き下し:
帝尭陶唐氏は、帝嚳の子なり。
其の仁は天の如く、其の知は神の如し。
之に就けば日の如く、之を望めば雲の如し。
平陽に都す。
茆茨(ぼうし)剪(き)らず、土階三等のみ。
天下を治むること五十年、天下治まるか、治まらざるか、億兆己を戴(いただ)くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず。
左右に問ふに知らず、外朝に問ふに知らず、在野に問ふに、知らず、乃ち微服して康衢(こうく)に游ぶ。
童謡を聞くに曰はく、
「我が烝民を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あら)ざる莫(な)し。
識(し)らず知らず、帝の則(のり)に順(したが)ふ。」と。
老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌(つち)を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作(な)し、日入りて息(いこ)ふ。
井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」と。』
今や戦狼外交で世界の鬼っ子になっている中国だが、中国には意外なことに鼓腹撃壌という至福千年を予定した故事がある。
『大意:
帝尭陶唐氏は帝嚳(ていこく)の子である。
その仁徳は天のようであり、その知力は神のようであった。
近づくと太陽のようで、遠く望めば雲のようであった。
平陽を都としていた。
かやぶきの屋根の端は切りそろえず(簡素にし)、
土で作った階段は三段だけだった(奢侈を戒めた)。
天下を治めて五十年になった。
(帝尭には)天下がよく治まっているのか、治まっていないのか、
民衆が自分を天子として戴くことを願っているのか、
願っていないのかが分からなかった。
左右に仕える家臣に尋ねても分からない。
朝廷の役人に尋ねても分からない。
在野の者に尋ねても分からない。
そこで卑しい身なりで街中に出かけていくと、童謡が耳に入ってきた。
「われわれ民衆が生活できるのは、
すべてあなたの最高の徳のおかげです。
知らず知らずのうちに、天子のルールに従っている」と。
老人がいた。口中に食物をほおばり、腹つづみを打ち、
足で地面を踏み鳴らして歌って言った、
「日が出れば働き、日が沈めば休む。
井戸を掘って水を飲み、田畑を耕して食べる。
天子の力がどうして私に関わりがあろうか、何も関わりない」と。』(十八史略)
鼓腹撃壌なのは、この老人の様子だが、伝統的には苛斂誅求のない政治を指しているものと解釈されている。要するに中国人特有の個人主義的な行き方を時の政府に邪魔されないところだけが強調されている。
ところが中国人は、砂のようなもので袋に詰めて強く縛っていればまとまっているが、一旦緩めるとまとまるものではない。中央政権が弱まると群雄割拠や無政府状態が現出しやすいものなのである。
よって民衆が無防備に食事を口に頬張って歌うというのは、この時代の共産主義政権や過去の君主独裁政権のことではないと思う。
民衆すべてが大道をわきまえ、日々行った善行悪事を功過格で累計して反省しなくとも、善行のみを行い、悪事を行わない。そうした社会でのみ鼓腹撃壌があり得るのだと思う。
現代中国の、金も行動も思想も信教も移動も転居も子供の数もすべて、監視されコントロールされた社会では、鼓腹撃壌というのは悪い冗談にしか思えないだろうが、中国の本源的理想社会、桃源郷とはそういうものだと思う。
『書き下し:
帝尭陶唐氏は、帝嚳の子なり。
其の仁は天の如く、其の知は神の如し。
之に就けば日の如く、之を望めば雲の如し。
平陽に都す。
茆茨(ぼうし)剪(き)らず、土階三等のみ。
天下を治むること五十年、天下治まるか、治まらざるか、億兆己を戴(いただ)くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず。
左右に問ふに知らず、外朝に問ふに知らず、在野に問ふに、知らず、乃ち微服して康衢(こうく)に游ぶ。
童謡を聞くに曰はく、
「我が烝民を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あら)ざる莫(な)し。
識(し)らず知らず、帝の則(のり)に順(したが)ふ。」と。
老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌(つち)を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作(な)し、日入りて息(いこ)ふ。
井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」と。』