◎二元の消滅、無、無音の音響、言語に絶する完璧な至福
悟り薬によるニルヴァーナの例。これはカリフォルニアの精神病院の主任臨床心理士のウィルソン・ヴァン・デューセンのLSDでの例。
『突然、そしてまったく不意に虚空の天井が絶対者の輝かしい存在で照らし出された。どうしてわかったのだろう。私が言えるのは、それは疑いの余地がない・・・ということだけだ。私は神であり、同時に人であることができるのだろうか。私のこれまでもっていた自己概念は、一瞬のうちに完璧にこっぱ微塵に砕かれた。
次第に、I〔自分〕やme〔対象としての自分〕は存在しなくなった。そこはただ無、漠々とした無であった・・・・。見るべきものは何もなかった、が、見るべきものは何もないということを見る意識はあった。
過程そのものとしての存在や過程として運動はあった。「過程」はなかった。そこにただある[being]だけだった。内も外もない「ほかの何か」。二元論は終り、そこには素晴らしい無との交感があった―――――空と静寂と全くの無との。それは無音の音響を聞くことだった(Van Dusen 196l, p.13)
・・・・思いもかけない稲妻のような恍惚感に打たれた。身体は、宇宙をつくっている現象とエネルギーの流れに溶解した。すべてのものが生起し、すべてのものが集結する存在の核へ、私は運ばれていった。そこでは主観と客観、空間と時間、そのほかどんな区別もなくなっている・・・・。
その核には、ただ言語に絶する完璧な至福の状態があり、ほかの感覚は何もない。ここで人は、憐みの感情が湧き起こるのを感じ、また自分が体験する歓喜をほかの人と共有したいと渇望する。自己が溶解するとともに、ほかの人はほかのすべてとなり、そして利己的なものは消滅する・・・・・。
私はこの状態に数秒いたのか、数時間いたのかいまだにわからない(Houston and Masters 1972pp307-308。』
(サイケデリック・ドラッグ 向精神物質の科学と文化 レスター・グリンスプーン/著 工作舎P263-264から引用)
二元の消滅、無、無音の音響、言語に絶する完璧な至福など、第六身体アートマン、第七身体ニルヴァーナに関する表現が並んでおり、この人物は、LSDによってニルヴァーナに到達したとわかる。
ニルヴァーナに到達すれば、再び人間に帰って来れるかどうかが問題となる。インドでは、ニルヴァーナに到達しさえすればよく、人間として戻ることは問題にしていない。一方、日本、中国では、ニルヴァーナに到達したら、その悟りを持って人間として生きることを想定している。このことは、十牛図第九図、第十図の他、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』のクンダリーニ・ヨーガ上昇後の肉体への帰還のシーンで描かれている。
ドラッグによるニルヴァーナの到達はあり得るが、用量を誤って戻ってこれない人もあるが、大半の人は人間に戻って来る。ドラッグの効き目が切れたら、元の黙阿弥に強制的に戻るのだ。
いわゆる悟る準備のできていない人が、霊道を開くことは百害あって一利なく、同様に悟る準備のできていない人がドラッグでニルヴァーナに到達することは、問題が多いものだ。個人間とどんな区別もない世界を、どうやって共存させ、どのように自分で納得させ得るのだ。
(続く)
悟り薬によるニルヴァーナの例。これはカリフォルニアの精神病院の主任臨床心理士のウィルソン・ヴァン・デューセンのLSDでの例。
『突然、そしてまったく不意に虚空の天井が絶対者の輝かしい存在で照らし出された。どうしてわかったのだろう。私が言えるのは、それは疑いの余地がない・・・ということだけだ。私は神であり、同時に人であることができるのだろうか。私のこれまでもっていた自己概念は、一瞬のうちに完璧にこっぱ微塵に砕かれた。
次第に、I〔自分〕やme〔対象としての自分〕は存在しなくなった。そこはただ無、漠々とした無であった・・・・。見るべきものは何もなかった、が、見るべきものは何もないということを見る意識はあった。
過程そのものとしての存在や過程として運動はあった。「過程」はなかった。そこにただある[being]だけだった。内も外もない「ほかの何か」。二元論は終り、そこには素晴らしい無との交感があった―――――空と静寂と全くの無との。それは無音の音響を聞くことだった(Van Dusen 196l, p.13)
・・・・思いもかけない稲妻のような恍惚感に打たれた。身体は、宇宙をつくっている現象とエネルギーの流れに溶解した。すべてのものが生起し、すべてのものが集結する存在の核へ、私は運ばれていった。そこでは主観と客観、空間と時間、そのほかどんな区別もなくなっている・・・・。
その核には、ただ言語に絶する完璧な至福の状態があり、ほかの感覚は何もない。ここで人は、憐みの感情が湧き起こるのを感じ、また自分が体験する歓喜をほかの人と共有したいと渇望する。自己が溶解するとともに、ほかの人はほかのすべてとなり、そして利己的なものは消滅する・・・・・。
私はこの状態に数秒いたのか、数時間いたのかいまだにわからない(Houston and Masters 1972pp307-308。』
(サイケデリック・ドラッグ 向精神物質の科学と文化 レスター・グリンスプーン/著 工作舎P263-264から引用)
二元の消滅、無、無音の音響、言語に絶する完璧な至福など、第六身体アートマン、第七身体ニルヴァーナに関する表現が並んでおり、この人物は、LSDによってニルヴァーナに到達したとわかる。
ニルヴァーナに到達すれば、再び人間に帰って来れるかどうかが問題となる。インドでは、ニルヴァーナに到達しさえすればよく、人間として戻ることは問題にしていない。一方、日本、中国では、ニルヴァーナに到達したら、その悟りを持って人間として生きることを想定している。このことは、十牛図第九図、第十図の他、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』のクンダリーニ・ヨーガ上昇後の肉体への帰還のシーンで描かれている。
ドラッグによるニルヴァーナの到達はあり得るが、用量を誤って戻ってこれない人もあるが、大半の人は人間に戻って来る。ドラッグの効き目が切れたら、元の黙阿弥に強制的に戻るのだ。
いわゆる悟る準備のできていない人が、霊道を開くことは百害あって一利なく、同様に悟る準備のできていない人がドラッグでニルヴァーナに到達することは、問題が多いものだ。個人間とどんな区別もない世界を、どうやって共存させ、どのように自分で納得させ得るのだ。
(続く)