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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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見ている自分

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◎ヨーガ・スートラ

悪魔は、冥想修行の最終段階で出現するのだが、悪魔と対峙した絶体絶命体験がない人は、真に非二元に至ったとはいえないだろう。

その最終ステージでは、見ている自分が残っているかどうかが問われる。見ている自分が残っていない姿を人間の側から示唆するのがタロットの吊るされた男。

パタンジャリのヨーガ・スートラは、長年出版物を追うといろいろな訳が出ているが、全体としてこれぞというものはない。佐保田鶴治ものを含め、しどろもどろ感があるのだ。

パタンジャリのヨーガ・スートラで見ている自分に言及があるのは、2-6。

『「私」という感覚は、見る者(意識)と見る力(認識)とを同一視するところから現れる。』
(ヨーガ・スートラ パタンジャリ哲学の精髄 A.ヴィディヤーランカール/著 東方出版P185)

『自我意識とは、見る者と見ることを同一のものとして認識することである、』
(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックス P(X))

『我想とは、見る主体である力(真我)と、見るはたらきである力(覚等)とを一体であるかの如く想いこむことである。』
(解説ヨーガスートラ/佐保田鶴治/平河出版社P83)

三種とも、見る者と見ることあるいは見る力を二区分。見ている自分をなくしていくことが目的なのに、さらに見る者と見ることを区分することは、修行者にとって意味あることなのだろうか。

一方、佐保田鶴治のように我想と訳すと想う自分がなくならないのが前提みたいな語感で、さらに読者を紛れさせる印象。

ヨーガ・スートラのこの部分は、神人合一を目指す修行者にとって最重要部分なのだが、どういうつもりでこのように分析的に書いたのだろうか。

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