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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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無神論者と神知らぬ者

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◎証明できないものを直観する

世の中には神知る者がごく稀にいて、99.99%以上の人は神知らぬ者である。

その神知らぬ者の中には、無神論者と有神論者がいる。無神論者には絶え間ない無神論洗脳社会を前提とした無神論者がいて、その一方で自由主義国家にも無神論者がいる。

もともと東洋では神の存在は心情的に自明であって、一方西洋では心情的に自明ではないので、神の存在は論理でもって論証するという形態がとられてきた。

神を知るには三形態あって、それは神人合一する、神を見る感じる、神を我が身に下ろすである。

要するに行という無意識を操作する多数の技法があって、それでもって三形態あるどれかの「神を知る」というあり方を選ぶ。

人は行に取り組むには、理屈でもって納得しないとやらないものだから、最初はその人の機根、世界観に合わせて説得、証明という導入は必要なものだ。

だがこの時代は、科学という肉体と物質優先の考え方が主流であって、証明はその土台に載ることを求められる。あのもののわかったクンダリーニ・ヨーギ本山博は、神仏すなわち第七身体であって、物質レベル肉体レベルではない神仏を、脳波などを計測して神仏の実在を証明しようとしたのは、無謀なチャレンジだったかもしれない。

こうして、神仏を他人に証明する試みはあるが、一方でそれを自証、自ら体験する道がある。あらゆるまともな信仰、カルトではない信仰はその道だと言えるし、芸道武道もその道を極めれば「神に入る」ということはある。

神仏は肉体・物質レベルの証明手法で証明などしきれないものだから、信じて行に取り組んでいくことが、神を知るという「体験とは言えない体験」に至る道であると思う。

その「信じて」ということは、強制もできないし、説得も論証もできないが、発心などと呼んで宗教者は重視するものだ。

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