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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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釈迦といういたづら君-4

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◎他人も我も一体である

一休水鏡から。
釈迦の戒律通りに生きても、仏になるという兆候もなく、とにかくわけがわからない。死んでしまえば我もなく、他人もない。釈迦も阿弥陀仏も元々は人間として生を受けながら、地獄に入ったのである。
※太子瑞応本起経に、釈迦は昔長い間凡夫だったとあり、観心略要集に、弥陀も昔は凡夫だったとある。

心と仏教についての歌五首。

夜もすがら仏の道を尋ぬれば
我が心にぞ尋ね入りぬる
※徹夜で仏の道を尋ねたら自分のこころに分け入ってしまった。

思ひ入れば人も我が身もよそならず
心の外(ほか)の心なければ
※思うに他人も我も一体である。心の外(ほか)に心はないという神秘体験。

心とてげには心の無き物を
悟るは何の悟りなるらん
※心といっても本当のところ心はないのだから、悟るというのは、一体何の悟りなのだろうか。

何事も空しき夢と聞く物を
醒めぬ心を歎きつるかな
※何事も空しい夢だと聞いているが、それにも係わらず醒めない心を嘆いていることだ。

我が法を言はでぞいらぬ春の花も
開けて散りて土にこそなれ
※私も仏法の顕現であると言わずにはいられない春の花も、結局は開いて散って土に帰っていく。

結局仏教とは自分の心を知るということであり、自分の心は自他一体、世界全体であるという体験とは言えない体験がないとわからない。

その立ち位置において、心など本当はないのだという説明が入っている。

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