◎アートマン(我)と無我
仏教哲学者の中村元が面白いことを書いている。
『また『バガヴァッド・ギーター』においてもいう。―――
『一切の愛欲をすてて、欲求なく、わがものの観念なく(nirmama)、自我の観念のない(nirahankara) 人は、やすらぎに到達する。』(Bhag.G., II, 71)
アートマン(我)の哲学を説いた当時の哲人たちが、このように仏教の無我説を採り入れて、そこ
になんらの矛盾を感じなかったのである。したがって、仏教の修行者がアートマンの実現・愛護と、無我説とをともに説いていたとしても、なんら不思議はないであろう。』
(中村元選集第二十四巻ヨーガとサーンキャの思想P495から引用)
バガバッド・ギータでは、自我の観念がなくなればやすらぎがあるとし、中村元は、これを無我と思っている。また彼は無我を我がないことだと想像しているようである。
アートマンは我と訳されるが、現象全体、有全体であり、既に個人ではない。彼は、経験的に無我とアートマン=我が併存するのはおかしいと言っているのである。
無我の方は、無我と名付けたり訳されたりしているが『無』なんぞではない、言葉で表現できないものを仮に無我と言っているだけで、有我あるいは有=アートマンの対義語として無我といっているわけではない、と私は考えている。
要するに中村元が、無我という体験とは言えない体験を経ていさえすれば、このような説は出てこなかったのではないかと思う。
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナ。これは身体と呼んでいるが、全然身体のことではないのだが、アートマンとニルヴァーナ、我と無我を経験的に考えてはいけないと思う。我も無我も意識でも心理でもない。
経験的に考えた瞬間に真実は取り逃がされるからである。
もちろん体験とは言えない体験を経た人は真相を承知している。
仏教哲学者の中村元が面白いことを書いている。
『また『バガヴァッド・ギーター』においてもいう。―――
『一切の愛欲をすてて、欲求なく、わがものの観念なく(nirmama)、自我の観念のない(nirahankara) 人は、やすらぎに到達する。』(Bhag.G., II, 71)
アートマン(我)の哲学を説いた当時の哲人たちが、このように仏教の無我説を採り入れて、そこ
になんらの矛盾を感じなかったのである。したがって、仏教の修行者がアートマンの実現・愛護と、無我説とをともに説いていたとしても、なんら不思議はないであろう。』
(中村元選集第二十四巻ヨーガとサーンキャの思想P495から引用)
バガバッド・ギータでは、自我の観念がなくなればやすらぎがあるとし、中村元は、これを無我と思っている。また彼は無我を我がないことだと想像しているようである。
アートマンは我と訳されるが、現象全体、有全体であり、既に個人ではない。彼は、経験的に無我とアートマン=我が併存するのはおかしいと言っているのである。
無我の方は、無我と名付けたり訳されたりしているが『無』なんぞではない、言葉で表現できないものを仮に無我と言っているだけで、有我あるいは有=アートマンの対義語として無我といっているわけではない、と私は考えている。
要するに中村元が、無我という体験とは言えない体験を経ていさえすれば、このような説は出てこなかったのではないかと思う。
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナ。これは身体と呼んでいるが、全然身体のことではないのだが、アートマンとニルヴァーナ、我と無我を経験的に考えてはいけないと思う。我も無我も意識でも心理でもない。
経験的に考えた瞬間に真実は取り逃がされるからである。
もちろん体験とは言えない体験を経た人は真相を承知している。