◎イエスが弟子の足を洗う
『真如法界
他なく自なし
急に相応せんと要(ほっ)せば
唯だ不二と言うのみ』
(信心銘)
大意:分別対立のない真如の世界には、他もなく自分もない。
それをバッチリと一言で言うならば、不二と言うしかない。
禅の極みでは、自分は世界全体、宇宙全体となるから、自他の区分は無い。これを世間では、ある種の異常な心理状態だと見るから事を誤る。他人もなく、他の事物もなく、自分もないのが、心理状態でなく、現実そのもの。そうした世界に生きるというのが、悟り。
他もなく自分もないと言っているが、続く詩句では、包容されぬものなしとしているので、これは、有(アートマン)の側。
聖者を友人にするというのは、そういう現実感に生きることに抵抗など示さず、当たり前に理解し共感してあげるということなのだろうと思う。イエスが弟子の足を洗ってあげた消息はその辺りにある。
『真如法界
他なく自なし
急に相応せんと要(ほっ)せば
唯だ不二と言うのみ』
(信心銘)
大意:分別対立のない真如の世界には、他もなく自分もない。
それをバッチリと一言で言うならば、不二と言うしかない。
禅の極みでは、自分は世界全体、宇宙全体となるから、自他の区分は無い。これを世間では、ある種の異常な心理状態だと見るから事を誤る。他人もなく、他の事物もなく、自分もないのが、心理状態でなく、現実そのもの。そうした世界に生きるというのが、悟り。
他もなく自分もないと言っているが、続く詩句では、包容されぬものなしとしているので、これは、有(アートマン)の側。
聖者を友人にするというのは、そういう現実感に生きることに抵抗など示さず、当たり前に理解し共感してあげるということなのだろうと思う。イエスが弟子の足を洗ってあげた消息はその辺りにある。