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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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万人が神知る時代の始まり

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◎冥想修行の入り口

万人が神知る時代が近づいたと言っても、それは主に欧米先進国や日本のことであって、それ以前の自己実現をテーマとしている人が大多数である国の事情とは異なる。要するに万人が神知る時代とは総論なのだが、個別に各国の国民について、実際に物質的願望に飽き、それ以上のもの、精神的な価値あるものの極みを本心から望んでいるかどうかを見てみれば、発展途上国の国民は必ずしもそうではないことが見て取れるのではないだろうか。

精神が爛熟熟成すれば、本来求道に進むべきものだが、テレビ、ネット、マスコミなどによる広義のマインド・コントロールにより、人は、ともすれば無駄な時間つぶしや、金や便利を求める水平的な行動に引っ張られがちである。ヴァーチャル・リアリティは下層霊界であるというのは既に指摘があるが、メタバースもヴァーチャル・リアリティも同列であって、神仏とは方向の異なる水平的世界に異ならない。

いまや、その人が正しく生きているかどうかそのものが問われている時代となった。
神仏とは、癒しや絆や救済など個人の快適の延長線上に望むものかもしれないが、それだけでは、見神見仏すらも成らないかもしれない。

またこの価値観のあまりにも多様化した世界では、神仏、涅槃、ニルヴァーナ、空、禅の絶対無、タオなどと云ってみたところで、人によってその意味するところが区区に異なっているのが通例であり、共通イメージを呼び起こすことすら困難である。

神仏への道は多数の道が用意されているものだが、実際にその峻険な道を進む者は稀である。また進み始める者は多いが、今生で頂上まで到達できる者は、多くはない。

どうしてそのようなことになるかを考えてみると、神仏への道、冥想修行は、覚者達が口を揃えて、容易である簡単であると唱えるわりに、実際は成功するためのファクターが意外に多く、複雑であり、自分ではどうにもならない要件がある、という現実にぶち当たる。

例えば、冥想修行の成功の基本は、まず現実・人生そのものへののっぴきならない疑いと不条理を認知することが必要である。そして、これ以上ない、死を賭せるほどの真剣さ。さらに最終ステージまで行くには、他人から教えられたものでない堅固な意志、それを支える充分な生きるエネルギーのようなものが要る。
こうしたものを携えて、先入観をなくしていくという作業を行っていく。

勿論最初から究極を狙う只管打坐と漸進的に進むクンダリーニ・ヨーガ系の修行では、その後のプロセス、修行の進行は全く異なるが、以上述べたことは、共通と考えてよいのではないか。

霊があるとか、霊がないとか、七つの身体論とかは、すべていろいろな説明があるうちの一つの説明のやり方に過ぎない。無数にある世界の説明の仕方の一つに過ぎない。一つの修行方法には、必ずそれに随伴する世界観があるものだ。

冥想修行は往々にして先入観をなくすことから始まる。先入観をなくすとは、こうした説明の相対性を認め、人間的感情が何の役割も果たさない静寂と自制の状態を求めるということになるだろうか。

そして人は、冥想法をまま途中で変更するものだ。また修行が進むにつれて、冥想法を変えざるを得ないというようなこともあるのではないか。

また何かになる冥想や何かを得ようとする冥想は不可だが、観想法を否定するものではない。一方でまたなりきることを求められる手法もあるという側面はある。そのような観点からも冥想のやり方全般について包括的に決めつける意見は危うい側面を持っている。

故に正師と弟子の二者間でのみ個々人向けのアドバイスや指導は行われるべきであって、講演や不特定多数相手のネットでそのようなことを行うのは警戒すべきだと思う。いわんや金を対価に人生が滅茶滅茶になる可能性のある瞑想指導を受けるなどは空恐ろしいことである。精神を操作するというのは、相応の危険があるものだ。

だが世界は、米とロ中の対立を深め世界核戦争の累卵の危うきにある。社会は一層個人管理の度合を深めさらに自由なき牢獄に向かっている。今ここで、正しく生きることを求めずにいつ求めるのだろうか。


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