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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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人間は死の世界から出でて死の世界に帰って行く

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◎死を体験する

一般に死を体験するのは、臨死体験しかない。ところが広義のクンダリーニ・ヨーギ達は死の世界を体験することが重要だと説く。これに対し、禅、只管打坐型の覚者では、せいぜいが生と死に差はないと説く程度。まるっと見ると死の世界の一部が生の世界。

クンダリーニ・ヨーギ達の説とは、次のようなもの。
荘子斉物論篇:
死を憎むとは、弱喪して帰るを知らざる者(弱年にして故郷を失った者が故郷を忘れてさまよう者)ではないのか。⇒死は故郷である。

淮南子:生は寄なり、死は帰なり。

出口王仁三郎:
『有難き現界

私は五六度死んだ事があるが、生きかへつてから後も二週間位はひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構な事である。

三十才の生命を神様より与へられて居る人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うて居るのである。しかのみならず霊界へ行けば総てが定まつて仕舞ふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。

人生の目的は地上に天国をひらく為であるから、魂を汚がさんやうにすることが一番大切な事である。刀身がゆがむと元のさやに納まらないごとく、魂が汚がれゆがむと元の天国にはをさまらぬ。

人間に取つて一番大切な事は何といつても生きて居る中に死後の存在を確めておく事である。死後の世界が分ると五倫五常が自然に行へる。倫常を破ると云ふ事は自分の損になる事がハツキリ分るからである。人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。

私は人生問題になやんで或時は爆弾を抱いて死んでやろうかとさへ思つた事がある。神様の御恵みによつて何も彼も知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入る事が出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、幾度か死を考へた事ほどそれが痛切であつたのである。』
(月鏡/出口王仁三郎/ 天声社版P.88から引用)

ダンテス・ダイジ:
『君は 
あらゆるものとともに死ぬ 
君も世界も 
もともとありもしないここに
あらゆるものが戯れている

いうなれば 
君達は
体験ではない体験
それ自身を 
再体験しようとしている』
(老子狂言/メシアン・ハンドブックから引用)

この他に密教系の修行では、死の世界が出てくる。禅でも大死一番などと言い、死の体験を説く。

だが科学者の臨死体験研究では、臨死体験で神を認知することは意外に少ないものであることが知られている。また死者の蘇生という点では、死から帰還して肉体にダメージを残さないのは結構難しいことも知られている。

そして肉体死すれば、神に出会うかと言えば、ほとんどそうではないことも知られている。死によって神仏に出会う、合一するというのは、かなり難しい技術なのだ。それを成し遂げるために正師は必須なのだ。

以上の話は、社会通念から言えば問題が多いが、人間の真の救済は、過去そのように起きて来たというのも紛れもない事実なのだろうと思う。

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