◎男装坊昇天以後は弥勒の世
秋田県には、十和田湖と田沢湖があり、八郎潟という汽水湖は、干拓されて耕地になっている。この三つの湖の言われは、観光案内にも出ているのだが、これを大神に感じて出口王仁三郎が随筆集月鏡に『十和田湖の神秘』として巻末に書き下ろしたもの。
この話のあらましは、次のようなものである。
秋田県の赤吉という所に大日別当了観という有徳の士が夫婦で住んでいた。昔、伯耆大山即ち日の川上山において、神素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治されたのだが、この大蛇の霊魂が再び凝って、大蛇となり、近所の北沼に棲んでいた。
さて大日別当了観に悪心の兆した時、この大蛇の霊魂が了観に化け了観に成りすまして、了観の妻と交わり、間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落した。
ところが、出産の当日は朝から天地晦冥大暴風雨起り来て大日堂も破れんばかりであった。了観はその恐ろしさに妻子を連れて鹿角の草木村へ逃げ、その男子を久内と名付けて慈しみ育てた。
その九代目に当る久内の子八郎が、友人二人と十和田奥入瀬で岩魚三尾を焼いた。ところが八郎一人で、三尾を食べたところ、のどが渇いてたまらないので、沢の水を飲み始めたところ、正午頃から日没の頃まで飲み続け、しまいには八郎の身体は大蛇と化していた。
八郎はやむなく友人と別れ、なおも水を飲み続ける事三十四昼夜。やがて十口より流れ入る沢を堰止めて満々とした一大碧湖を造り、二十余丈の大蛇となって水中に深く沈んでしまつた。かくして十和田湖は八郎を主として、年移り星変り数千年の星霜は過ぎた。永遠の静寂を以て眠って居た。
貞観十三年春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒言により都を落ちて、三ノ戸郡の糖部に着いて土地の別当のはからいにより、三ノ戸郡仁賀村に不自由なく暮らしていた。
藤原是実公は子供がいなかったので、奥方玉子君は、一子を授かろうと霊験堂の観音に二十一日の参篭を行った。ちょうど二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐えかね思はず神前にうとうととまどろめば、神人の姿現はれて「汝の願に任せ、一子を授けよう。されどもその子は必ず弥勒の出世を願う可し、夢々疑うなかれ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なり」と言って、その御姿は消えた。
やがて玉子君は女子を授かったのだが、男装させ、名も南祖丸とつけて男として育てたのだが、誰言うともなく、男装坊と呼ばれた。ところが、7歳にして母玉子君は亡くなる。臨終の床で、男装坊は、「弥勒の出生を願うべしとの夢のお告げを忘れてはならない」と母に言い含められ、彼はやがて出家の道を歩む。
かくして十三歳の頃より七十六歳に至るまで64年間男装坊は、全国行脚する。この間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。そしてちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜思はずとろとろと社前に微睡した。すると素盞嗚神が「鉄の草鞋を穿き山々峰々を行脚し、この草鞋の断れたる所を汝の住家と思い、そこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残して消えた。
その後全国行脚を続けたところ、十和田湖畔にて鉄の草鞋の緒がプッツリと切れた。そこで、ここを終わりの棲家として湖水に入定して十和田湖の主となることを決心し、御占場の湖辺に至り岸辺の巌上に佇立して又もや神明に祈願した。
すると先住の十和田湖の主である八郎大蛇が出現し、巨大バトルとなった。結局七日七夜を二度戦って、八郎大蛇は寒風山の隣の八郎潟に去った。
以後男装坊は、十和田湖で弥勒の出現を待っていたところ、昭和三年秋、瑞の魂出口王仁三郎が十和田湖畔に来たので、男装坊の英霊は天に昇り、現界人として再生した、というのが梗概。
消息通の人なら知っているが、男装坊の再生は、故出口和明さんだとのこと。だが話はそれ以上展開しないのは、この話を最初に読んだ時から妙なことだと思っていた。
全体として見れば、この「十和田湖の男装坊伝説」は、出口王仁三郎の入蒙記や、尾張半田の話と並んで重要な予言としか見えない。
「十和田湖の男装坊伝説」は、八郎が十和田湖に蟠踞して男装坊が鉄の草鞋でやってくるところまでが現代まで。バトルと八郎が八郎潟に去って、瑞霊たる弥勒に会うところが大峠、男装坊昇天以後は弥勒の世、ということになるのではないか。
秋田県には、十和田湖と田沢湖があり、八郎潟という汽水湖は、干拓されて耕地になっている。この三つの湖の言われは、観光案内にも出ているのだが、これを大神に感じて出口王仁三郎が随筆集月鏡に『十和田湖の神秘』として巻末に書き下ろしたもの。
この話のあらましは、次のようなものである。
秋田県の赤吉という所に大日別当了観という有徳の士が夫婦で住んでいた。昔、伯耆大山即ち日の川上山において、神素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治されたのだが、この大蛇の霊魂が再び凝って、大蛇となり、近所の北沼に棲んでいた。
さて大日別当了観に悪心の兆した時、この大蛇の霊魂が了観に化け了観に成りすまして、了観の妻と交わり、間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落した。
ところが、出産の当日は朝から天地晦冥大暴風雨起り来て大日堂も破れんばかりであった。了観はその恐ろしさに妻子を連れて鹿角の草木村へ逃げ、その男子を久内と名付けて慈しみ育てた。
その九代目に当る久内の子八郎が、友人二人と十和田奥入瀬で岩魚三尾を焼いた。ところが八郎一人で、三尾を食べたところ、のどが渇いてたまらないので、沢の水を飲み始めたところ、正午頃から日没の頃まで飲み続け、しまいには八郎の身体は大蛇と化していた。
八郎はやむなく友人と別れ、なおも水を飲み続ける事三十四昼夜。やがて十口より流れ入る沢を堰止めて満々とした一大碧湖を造り、二十余丈の大蛇となって水中に深く沈んでしまつた。かくして十和田湖は八郎を主として、年移り星変り数千年の星霜は過ぎた。永遠の静寂を以て眠って居た。
貞観十三年春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒言により都を落ちて、三ノ戸郡の糖部に着いて土地の別当のはからいにより、三ノ戸郡仁賀村に不自由なく暮らしていた。
藤原是実公は子供がいなかったので、奥方玉子君は、一子を授かろうと霊験堂の観音に二十一日の参篭を行った。ちょうど二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐えかね思はず神前にうとうととまどろめば、神人の姿現はれて「汝の願に任せ、一子を授けよう。されどもその子は必ず弥勒の出世を願う可し、夢々疑うなかれ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なり」と言って、その御姿は消えた。
やがて玉子君は女子を授かったのだが、男装させ、名も南祖丸とつけて男として育てたのだが、誰言うともなく、男装坊と呼ばれた。ところが、7歳にして母玉子君は亡くなる。臨終の床で、男装坊は、「弥勒の出生を願うべしとの夢のお告げを忘れてはならない」と母に言い含められ、彼はやがて出家の道を歩む。
かくして十三歳の頃より七十六歳に至るまで64年間男装坊は、全国行脚する。この間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。そしてちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜思はずとろとろと社前に微睡した。すると素盞嗚神が「鉄の草鞋を穿き山々峰々を行脚し、この草鞋の断れたる所を汝の住家と思い、そこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残して消えた。
その後全国行脚を続けたところ、十和田湖畔にて鉄の草鞋の緒がプッツリと切れた。そこで、ここを終わりの棲家として湖水に入定して十和田湖の主となることを決心し、御占場の湖辺に至り岸辺の巌上に佇立して又もや神明に祈願した。
すると先住の十和田湖の主である八郎大蛇が出現し、巨大バトルとなった。結局七日七夜を二度戦って、八郎大蛇は寒風山の隣の八郎潟に去った。
以後男装坊は、十和田湖で弥勒の出現を待っていたところ、昭和三年秋、瑞の魂出口王仁三郎が十和田湖畔に来たので、男装坊の英霊は天に昇り、現界人として再生した、というのが梗概。
消息通の人なら知っているが、男装坊の再生は、故出口和明さんだとのこと。だが話はそれ以上展開しないのは、この話を最初に読んだ時から妙なことだと思っていた。
全体として見れば、この「十和田湖の男装坊伝説」は、出口王仁三郎の入蒙記や、尾張半田の話と並んで重要な予言としか見えない。
「十和田湖の男装坊伝説」は、八郎が十和田湖に蟠踞して男装坊が鉄の草鞋でやってくるところまでが現代まで。バトルと八郎が八郎潟に去って、瑞霊たる弥勒に会うところが大峠、男装坊昇天以後は弥勒の世、ということになるのではないか。