◎気晴らしと厭世の先
人には父母がいて、場合により妻や夫がいて、子供がいて、ペットがいるが、誰一人死を免れる者はいない。だがそんなことは縁起でもないし、日々健康に楽しく生活していくためには、元気で明るい生活態度は、必要なものである。人には気晴らしが要る。
だが、気晴らしとは物そのものではなく、物に含まれる無形の価値を求めることである。適度な困難さ、達成感、世間体の良さがその求める物にあれば、なお好ましい。だが気晴らしだけでは人は、早晩行き詰る。洞窟での隔離実験のように、自分がもうこの世にいないような気がするまでになることがある。
そこでそれを総合的に感じ取れば、平素からニルヴァーナに至る道しかないと思い定め冥想修行を始めるはずだが、残念ながらそういう人はレア物である。
アメリカでは、1950年代以降食べるに困らない時代が長く続き、日本でも1970年代以降はそのような時代が続いたが、今や貧困化に苦しむ国民が半数となった。食える食えないは大切ではあるが、もうそんなことを言っていられない、世界的な人間同士、国同士の争闘の中で、自分が何のために生まれてきたか、死んでいくかを真剣に自問する時代が来た。
日々善を行い、悪を行わないのが、人の本来の姿。
零下7度の厳寒の朝である。
人には父母がいて、場合により妻や夫がいて、子供がいて、ペットがいるが、誰一人死を免れる者はいない。だがそんなことは縁起でもないし、日々健康に楽しく生活していくためには、元気で明るい生活態度は、必要なものである。人には気晴らしが要る。
だが、気晴らしとは物そのものではなく、物に含まれる無形の価値を求めることである。適度な困難さ、達成感、世間体の良さがその求める物にあれば、なお好ましい。だが気晴らしだけでは人は、早晩行き詰る。洞窟での隔離実験のように、自分がもうこの世にいないような気がするまでになることがある。
そこでそれを総合的に感じ取れば、平素からニルヴァーナに至る道しかないと思い定め冥想修行を始めるはずだが、残念ながらそういう人はレア物である。
アメリカでは、1950年代以降食べるに困らない時代が長く続き、日本でも1970年代以降はそのような時代が続いたが、今や貧困化に苦しむ国民が半数となった。食える食えないは大切ではあるが、もうそんなことを言っていられない、世界的な人間同士、国同士の争闘の中で、自分が何のために生まれてきたか、死んでいくかを真剣に自問する時代が来た。
日々善を行い、悪を行わないのが、人の本来の姿。
零下7度の厳寒の朝である。