◎モクシャとは、ニルヴァーナのこと
さらにOSHOバグワンの所説。
『魂は二つの身体―――微細身と粗大身の内側に存在する。死の時点で粗大身は死ぬ。土と水で作られた身体、肉、骨そして骨髄から成る身体は、脱落して死ぬ。その後、微細な思考、微細な感情、微細な波動、微細な繊維から成る身体が残る。
この身体は、これらの微細な物すべてで形成され、魂と一緒にもう一度旅に赴き、そして再び新しい誕生のため、粗大身に入る。新しい魂が母親の子宮に入る時、それはこの微細身が入ることを意味する。
死の出来事においては、粗大身だけが崩壊して、微細身は崩壊しない。しかし究極の死、私たちが解脱(モクシャ)と呼ぶものの発生とともに微細身も同様に粗大身と一緒に崩壊する。その時、魂にとってもはや誕生はない。その時魂は全体と一つになる。これはたった一度だけ起こる。それは水滴が海に合流するようなものだ。』
(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社P45-46から引用)
この全体は、アートマン、第六身体との合一を指し、厳密に言えば窮極ではないが、その辺はわかっている彼のことだからよしとしよう。
魂とは、様々な見解を見るところ、クンダリーニのエネルギーコード。
またモクシャが起これば、もはや人間としての誕生はないと書いているが、これはインド的見解であって、中国、日本では、人間として再誕があり得る。それは、禅の十牛図の第九図、第十図に見えるし、ダンテス・ダイジは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において、帰還時の様子を詳述している。
この引用文は、すこぶる端的に肉体死とモクシャの関係を描いている点で貴重である。
モクシャとは、ニルヴァーナのこと。ジャイナ教では、「カイヴァリア:独りあること」、仏教では、「ニルヴァーナ:無我」、ヒンドゥー教では「モクシャ:自由」と呼び名が異なるだけ。
微細身:アストラル体、メンタル体、コーザル体
粗大身:肉体、エーテル体
さらにOSHOバグワンの所説。
『魂は二つの身体―――微細身と粗大身の内側に存在する。死の時点で粗大身は死ぬ。土と水で作られた身体、肉、骨そして骨髄から成る身体は、脱落して死ぬ。その後、微細な思考、微細な感情、微細な波動、微細な繊維から成る身体が残る。
この身体は、これらの微細な物すべてで形成され、魂と一緒にもう一度旅に赴き、そして再び新しい誕生のため、粗大身に入る。新しい魂が母親の子宮に入る時、それはこの微細身が入ることを意味する。
死の出来事においては、粗大身だけが崩壊して、微細身は崩壊しない。しかし究極の死、私たちが解脱(モクシャ)と呼ぶものの発生とともに微細身も同様に粗大身と一緒に崩壊する。その時、魂にとってもはや誕生はない。その時魂は全体と一つになる。これはたった一度だけ起こる。それは水滴が海に合流するようなものだ。』
(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社P45-46から引用)
この全体は、アートマン、第六身体との合一を指し、厳密に言えば窮極ではないが、その辺はわかっている彼のことだからよしとしよう。
魂とは、様々な見解を見るところ、クンダリーニのエネルギーコード。
またモクシャが起これば、もはや人間としての誕生はないと書いているが、これはインド的見解であって、中国、日本では、人間として再誕があり得る。それは、禅の十牛図の第九図、第十図に見えるし、ダンテス・ダイジは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において、帰還時の様子を詳述している。
この引用文は、すこぶる端的に肉体死とモクシャの関係を描いている点で貴重である。
モクシャとは、ニルヴァーナのこと。ジャイナ教では、「カイヴァリア:独りあること」、仏教では、「ニルヴァーナ:無我」、ヒンドゥー教では「モクシャ:自由」と呼び名が異なるだけ。
微細身:アストラル体、メンタル体、コーザル体
粗大身:肉体、エーテル体