◎修証義第一章総序
修証義は、正法眼蔵エッセンスなどと言われている由。その第一章総序から第一節を和訳すればこんな感じでしょうか。
『第一節
生とは何かを明らかにし、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として最大の課題である。生の中に死の中に仏のさとり(ニルヴァーナ)があれば、生も死も無くなる。ただ、生も死もつまりは涅槃(ニルヴァーナ)だと心得、生だから死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。この時、初めて生死を離れた境地となる。これこそが、最大の課題なので究め尽くすべきだ。』
只管打坐は、生の側から極め尽くす坐法であって、死の側から極め尽くすものではない。死の側から極め尽くす坐法は、密教やクンダリーニ・ヨーガだから。敢えて道元が、死も極める(正法眼蔵の生死の巻)と言っているのは、只管打坐で身心脱落すれば、生の側も極めると同時に死の側も極められると言っているのだろう。
すなわち『生も死もつまりは涅槃(ニルヴァーナ)だと心得』とは、只管打坐で身心脱落すれば、それがニルヴァーナという体験とはいえない体験であるとわかること。だが、ニルヴァーナの手前の十牛図でいえば忘牛存人の段階は言及すらもしないのが、只管打坐である。
※原文
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是の時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
修証義は、正法眼蔵エッセンスなどと言われている由。その第一章総序から第一節を和訳すればこんな感じでしょうか。
『第一節
生とは何かを明らかにし、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として最大の課題である。生の中に死の中に仏のさとり(ニルヴァーナ)があれば、生も死も無くなる。ただ、生も死もつまりは涅槃(ニルヴァーナ)だと心得、生だから死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。この時、初めて生死を離れた境地となる。これこそが、最大の課題なので究め尽くすべきだ。』
只管打坐は、生の側から極め尽くす坐法であって、死の側から極め尽くすものではない。死の側から極め尽くす坐法は、密教やクンダリーニ・ヨーガだから。敢えて道元が、死も極める(正法眼蔵の生死の巻)と言っているのは、只管打坐で身心脱落すれば、生の側も極めると同時に死の側も極められると言っているのだろう。
すなわち『生も死もつまりは涅槃(ニルヴァーナ)だと心得』とは、只管打坐で身心脱落すれば、それがニルヴァーナという体験とはいえない体験であるとわかること。だが、ニルヴァーナの手前の十牛図でいえば忘牛存人の段階は言及すらもしないのが、只管打坐である。
※原文
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是の時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。