◎死の準備、死の瞬間と人間の見方のバリエーション
人間は、肉体とエーテル体(神経系にかぶる半物質)、アストラル体、メンタル体などでできている。そうした中で、人間は一個人がそのまま同一の一人として転生するという見方と、そうではなくてちょっとアレンジされた一人として転生するという見方がある。
さらには、そうした霊、あるいは微細身自体の存在について、肉体がメインで霊がサブであるという見方を採らず、霊がメインで肉体がサブという見方も存在する。さらには、霊+肉体=人間という見方ですら絶対のものでなく、無数にある現実の見方の一つにしかすぎないという見方がある。例えば、人はいくつかの天体を渡り歩く渡り鳥のようなものであると見たり、ドンファンのように光輝く球体と見たりというようなことがある。
そうした中で、死に際してまず肉体が機能停止、次にエーテル体は二、三日程度で崩壊、アストラル体で中有に移行するという見方がメジャーなのではないだろうか。
だが、一方で「呼吸停止、心拍停止での、死そのものを迎える時点で何を思うのか」ということが次の転生に大きく影響を与えるということも、キュブラーロスの論じた死の受容プロセスの問題とは別に存在している。
ダライラマの言葉。
『死の瞬間においては、長らく馴染んできた心がまえが表面に出て、生まれかわりを左右するのが常であります。
これと同じ理由で「我」に対して強い執着が起こるでしょう。なぜならわたしたちは「我」が存在しなくなることに怖れを感じるからです。この執着が、生と生の間の中有(バルド)の状態へとつなぐ繋ぎめの役割を果たし、肉体への愛着はバルド存在の身体をつくりだす因となります。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P377-378から引用)
※バルド:中有。
もっともチベット密教では死にゆくタイミングこそ今生で最後の悟りを開くチャンスと見て、あの手この手が用意されているのだが。
人間は、肉体とエーテル体(神経系にかぶる半物質)、アストラル体、メンタル体などでできている。そうした中で、人間は一個人がそのまま同一の一人として転生するという見方と、そうではなくてちょっとアレンジされた一人として転生するという見方がある。
さらには、そうした霊、あるいは微細身自体の存在について、肉体がメインで霊がサブであるという見方を採らず、霊がメインで肉体がサブという見方も存在する。さらには、霊+肉体=人間という見方ですら絶対のものでなく、無数にある現実の見方の一つにしかすぎないという見方がある。例えば、人はいくつかの天体を渡り歩く渡り鳥のようなものであると見たり、ドンファンのように光輝く球体と見たりというようなことがある。
そうした中で、死に際してまず肉体が機能停止、次にエーテル体は二、三日程度で崩壊、アストラル体で中有に移行するという見方がメジャーなのではないだろうか。
だが、一方で「呼吸停止、心拍停止での、死そのものを迎える時点で何を思うのか」ということが次の転生に大きく影響を与えるということも、キュブラーロスの論じた死の受容プロセスの問題とは別に存在している。
ダライラマの言葉。
『死の瞬間においては、長らく馴染んできた心がまえが表面に出て、生まれかわりを左右するのが常であります。
これと同じ理由で「我」に対して強い執着が起こるでしょう。なぜならわたしたちは「我」が存在しなくなることに怖れを感じるからです。この執着が、生と生の間の中有(バルド)の状態へとつなぐ繋ぎめの役割を果たし、肉体への愛着はバルド存在の身体をつくりだす因となります。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P377-378から引用)
※バルド:中有。
もっともチベット密教では死にゆくタイミングこそ今生で最後の悟りを開くチャンスと見て、あの手この手が用意されているのだが。