◎恐れから解き放たれますように
今般さる事情で、キリスト教系のホスピスあるいはターミナルケアをやる場所を訪れた。そこの多くの職員が、死を抵抗なく受容するという一点について迷いなく入所者の世話をして、その上であの世に平静に恐れなく送り出していることを感じて、恐れ入った。
さて釈迦は、すべての人にあらゆるタイミングで死が到達することをまず述べる。
『母親のお腹で死ぬ者も、
生まれるとき死ぬ者もいる。
這うことができるようになって死ぬ者も、
歩けるようになって死ぬ者もいる。
年老いた者も、盛りの者も、
ひとり、またひとり、
果実が地面に落ちるように、
人は死んでいく。
―――仏陀』
(ダライ・ラマ 死と向きあう智慧/ダライラマ14世/地湧社P113から引用)
パンチェン・ラマ一世が、死んでいく恐れ、生きていく恐れがあることについて語る。
『第一偈
わたしと虚空のような無数の衆生が、究極の悟りの境地を得る日まで、
過去・現在・未来の三世の仏と法と僧伽に帰依いたします。
どうかわたしたちが、今生・中有・後生での恐れから解き放たれますように。』
(上掲書P77から引用)
そして、その恐れからの解放の方向性を示す。
『仏陀は言われました。
仏たちは、衆生の悪い行ないを水で洗い清めることも、
その手で彼らの苦しみを取り除くことも、
自らの悟りを他のものに移しかえることもない。
衆生は、真理の教え、ものごとの真実のあり方の教えによって解放される。』
(上掲書P64-65から引用)
仏陀は、『「仏たち」である阿弥陀仏、薬師如来などの高級神霊がサポートしてくれることで、その恐れから解放してはくれない』と突き放す。
そこで、そうした第三者頼みでなく、真理の教え、ものごとの真実のあり方の教えによって解放されると示している。
人には内心、死んでいく恐れ、生きていく恐れがあるものだ。でもその恐れを取り除く初手は、「恐れから解き放たれますように。」という祈りから始まるのだ。
死の受容の問題もその恐れの問題に他ならない。
今般さる事情で、キリスト教系のホスピスあるいはターミナルケアをやる場所を訪れた。そこの多くの職員が、死を抵抗なく受容するという一点について迷いなく入所者の世話をして、その上であの世に平静に恐れなく送り出していることを感じて、恐れ入った。
さて釈迦は、すべての人にあらゆるタイミングで死が到達することをまず述べる。
『母親のお腹で死ぬ者も、
生まれるとき死ぬ者もいる。
這うことができるようになって死ぬ者も、
歩けるようになって死ぬ者もいる。
年老いた者も、盛りの者も、
ひとり、またひとり、
果実が地面に落ちるように、
人は死んでいく。
―――仏陀』
(ダライ・ラマ 死と向きあう智慧/ダライラマ14世/地湧社P113から引用)
パンチェン・ラマ一世が、死んでいく恐れ、生きていく恐れがあることについて語る。
『第一偈
わたしと虚空のような無数の衆生が、究極の悟りの境地を得る日まで、
過去・現在・未来の三世の仏と法と僧伽に帰依いたします。
どうかわたしたちが、今生・中有・後生での恐れから解き放たれますように。』
(上掲書P77から引用)
そして、その恐れからの解放の方向性を示す。
『仏陀は言われました。
仏たちは、衆生の悪い行ないを水で洗い清めることも、
その手で彼らの苦しみを取り除くことも、
自らの悟りを他のものに移しかえることもない。
衆生は、真理の教え、ものごとの真実のあり方の教えによって解放される。』
(上掲書P64-65から引用)
仏陀は、『「仏たち」である阿弥陀仏、薬師如来などの高級神霊がサポートしてくれることで、その恐れから解放してはくれない』と突き放す。
そこで、そうした第三者頼みでなく、真理の教え、ものごとの真実のあり方の教えによって解放されると示している。
人には内心、死んでいく恐れ、生きていく恐れがあるものだ。でもその恐れを取り除く初手は、「恐れから解き放たれますように。」という祈りから始まるのだ。
死の受容の問題もその恐れの問題に他ならない。