◎釈迦といういたづら君の世に出でて 多くの者を迷はするかな
『仏に逢ったら仏を殺せ、親に会ったら親を殺せ』。これは、悪魔教ではなく、陰謀論でもなく、無差別テロでもなく、禅の大物マスター臨済の言葉である。
この言葉は、一休が、『釈迦といういたづら君の世に出でて 多くの者を迷はするかな』という歌を詠んでいるが、それと同じ見方から来ている。
この臨済の元々の言葉(「臨済録」示衆)は、
『内においても外においても出会ったものはすぐ殺せ。
仏に逢うては、仏を殺し
達磨に逢うては、達磨を殺し
羅漢に逢うては、羅漢を殺し
父母に逢うては、父母を殺し
親類縁者に逢うては 親類縁者を殺してこそ
初めて解脱して自由自在となる』。
冥想修行者は、まずは第六身体アートマンとの合一を本来の自己(宇宙全体)の悟りを目指すと見れば、それ以外のあらゆるものは、釈迦だろうが、親だろうが、超能力だろうが、霊能力だろうが、巨万の富だろうが、チートだろうが、かかづらわってはいけない。
それができないのはめくらロバ。
禅ではゆとりは許さない。
『仏に逢ったら仏を殺せ、親に会ったら親を殺せ』。これは、悪魔教ではなく、陰謀論でもなく、無差別テロでもなく、禅の大物マスター臨済の言葉である。
この言葉は、一休が、『釈迦といういたづら君の世に出でて 多くの者を迷はするかな』という歌を詠んでいるが、それと同じ見方から来ている。
この臨済の元々の言葉(「臨済録」示衆)は、
『内においても外においても出会ったものはすぐ殺せ。
仏に逢うては、仏を殺し
達磨に逢うては、達磨を殺し
羅漢に逢うては、羅漢を殺し
父母に逢うては、父母を殺し
親類縁者に逢うては 親類縁者を殺してこそ
初めて解脱して自由自在となる』。
冥想修行者は、まずは第六身体アートマンとの合一を本来の自己(宇宙全体)の悟りを目指すと見れば、それ以外のあらゆるものは、釈迦だろうが、親だろうが、超能力だろうが、霊能力だろうが、巨万の富だろうが、チートだろうが、かかづらわってはいけない。
それができないのはめくらロバ。
禅ではゆとりは許さない。