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関山慧玄

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◎英雄の孤独と放浪

黒田官兵衛は、毛利軍と別所軍の両方ににらみを利かせるべく書写山円教寺に秀吉とともに本陣を移した。

書写山円教寺は今でも堂々たる大伽藍であるが、なんとこの寺は大徳寺開祖の大燈国師の若い頃のメインの修行場であった寺でもある。

大燈国師が亡くなる前に、花園上皇に対し、彼の後継者には関山慧玄が適当であると既に指名を終えていた。

果たして大燈国師の病没に先だって、花園上皇は全国の四方八方に使者を遣わして関山慧玄の行方を捜させた。


さて関山慧玄は、1277年生まれ。大燈国師に師事して52歳の1329年、関の字の公案を透過し大悟した。いかにも老境での大悟である。これを記念して、大燈国師は、印可状も与え、“関山”の号も与えた。

まもなく関山は、美濃の伊深に草庵を結んで、周辺の村人にもそれと気づかれることなく百姓をやっていたが、1337年花園上皇の命を受け、妙心寺開山となり、花園上皇の師ともなった。さらに彼は、ほどなく妙心寺を退去したともされる。

関山には、語録もなく、頂相もなく、こういう人は厳格であったと周辺から称されるのだが、要はシャイだったのではないか。

どんなに大悟徹底したとしても、それゆえの生きづらさはあるのではないか。だから帰る家がないという空虚さを残しながらしばしば旅に出たり、住まいを変えたりするということではないかと思われてならない。

そのあたりの心情は、かのダンテス・ダイジの「帰る家がないからといって 家を求めてさ迷うには及ばない」という一節に凝縮されているように思う。英雄は孤独なものだ。

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