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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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アストラル人間にも救いはない

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◎非論理的説明、非論理的垂直ジャンプ
◎アストラル世界だけのシナリオにも、結局救済シーンはない

人間の可能性はアストラル人間に止まるものではない。

アストラル人間の成り行きというのは、それがそのまま霊がかりな見方というべきものである。霊がかりな見方というのは、20世紀初めに世界的に流行した心霊主義で、出口王仁三郎、ルドルフ・シュタイナー、ブラヴァツキー夫人、リードビーターなどに代表される動きである。

霊がかりであるからには、光と闇の戦い、つまり天使と悪魔の戦いが主たる関心事であって、いつ果てるともしれないそれを繰り返すために、禊、浄化が重要となり、霊能は有用であるという立場を出ることがない。

理屈としては、そういう行き方・修行法は勿論「有り」なのだが、まずその人の個性によるし、時代環境や、その時代の人間にマッチするかどうかはまた別である。第二次世界大戦後はすっかり下火になったと言ってよい。

人間は七つのボディであり、肉体からエーテル体、エーテル体からアストラル体、アストラル体からメンタル体ではそれぞれいわゆる垂直移動になる、垂直移動の一種が第七身体=タオ=絶対無に到る移動である。

これに対して、エジプト死者の書のように、霊界の中で珍獣にあったとか珍宝を見つけた云々というのは、水平移動であって、同一ボディの中でいくら面白い移動があったとしてもそれだけではなにも本質的なイベントは起こらない。つまり霊がかりな話、アストラル人間の末路を論じてもそれだけでは、面白いことは何も出て来ないのだ。

人間社会のあらゆる問題は死の恐怖から来ている。生保、損保、そして生活を安定させ余計な死のリスクを分散させる税の再配分のシステム、家庭、社会秩序、軍備、政治イデオロギー、そうしたものは本来時々刻々直面している自分の死のリスクから来る緊張を緩和するために作られたものである。

死のリスクを論じるならば、死のステップをチベット死者の書などで見ていくことも避けられない。死の初段は、肉体死から「原初の光」を意識しつつ、エーテル体の崩壊、中有へ移動、アストラル体への移行と進む。ここでアストラル体世界となるが、チベット死者の書でもアストラル人間の未来をエジプト死者の書のようなアストラル世界だけに絞っているわけではない。アストラル世界だけに終われば、カタルシスなき映画、釈然としないエンディングの映画みたいになっちまう。


アストラル世界だけのシナリオにも、結局救済シーンはないのだ。

現代はそこがポイントになっているのだが、知性の発達した現代人はそこの非論理的説明の部分にこそ極めてニーズが高いというわけなのだ。

【チャクラと七つの身体−219】
◎アストラル体−88
2.アストラル体の性質−69
5. 死の世界だが、悟りではないということ-8アストラル人間にも救いはない
(ザ・ジャンプ・アウト273)

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