Quantcast
Channel: アヴァンギャルド精神世界
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3535

世界の転換へのモチベーション

$
0
0
◎死を忌避する文明と幸福の中に生きるということ

人間の死には二種あり、肉体の死自我の死である。世界の転換という観点では、肉体の死が自我の死ではないことを知るのは、アストラル宇宙を知って死者の世界を知る時になるのだろうが、その転換であっても、人間にとっての真の幸福とはまだ遥かに遠い。

人間にとって本当に最終的な世界の転換、つまりアートマンがブラフマンに進むというような転換の必要性を、万人が直観することができるのだろうか。
その必要性は、一見日常の生活感覚には存在していない願望のように見えるが、本当にそうなのだろうか。

これには二つの側面があって、一つは現代の文明社会はひたすら死を忌避する社会であるということ。その忌避している死とは、自分の肉体の死であり、自我の死である。肉体の死と自我の死は同義であって揺るぐことがない。その根本思想で法律ができ、政治体制、役人の統治体制など政治、経済、文化のあらゆる金と権力の流れが構成されている。

死を忌避する社会を超克する論理として、肉体の死は自我の死ではないということを徹底する必要がある。これが第一の側面。

もうひとつの側面は、人間は、どんなみじめな境遇にあっても、「本気で願えば」、その人なりに幸福な生き方あるいは至福というものに必ず出会えるものだということ。(これは悟る悟らないとは違う種類のこと。)

この実例としては、マザーテレサがホームレスで行き倒れた人を「死を待つ人の家」に収容し、体を洗って上げたり、言葉をかけて上げたりすると、穏やかに幸福のうちに亡くなっていく・・・などというのもその実例の一つ。

マザー・テレサは、自分が傷つくまで愛することを勧める。何のことかといえば、困っている人に出会ったなら、自分にとって最も大切なものも喜んで犠牲にしなさい、差し上げなさいということ。これは、覚者、光明を見た人たちに共通の生活上のマナーである。至福千年の社会では、すべての人たちがこのマナーを共通のライフ・スタイルとして生きる。万人が(悟った人も悟っていない人も)幸福に生きるにはこのライフ・スタイルしかない。

第二の側面は、言葉にすれば「幸福を生きる」ということだが、これは正確に理解してもらうことがとてもむずかしい。「幸福を生きる」とは、自分が傷つけられたりすることは意に介さない、自分の持ち物は喜んで他人に差し出す、助けを求められれば他人にしてあげる。そうしたライフ・スタイル・態度をとる中で、至福を常に感じている。それが「幸福に生きる」というあり方になるのだろう。換言すれば、宇宙意識・神・タオに出会った者としての生活態度、姿勢が、この「幸福を生きる」ということであり、これが天命を生きる、天意を生きるということなのだと思う。

そうしたライフ・スタイルが全く打算や計らいなしに反射的にできるためには、悟ることにより、真の愛を知らねばならない。悟らなければ、こうしたライフ・スタイルこそ幸福だとは思えないのだろうとも思う。

よって、そうした体験のない人々の「愛」という名の社会運動やイデオロギーやボランティアはすべて偽物である。(その偽物から本物の覚者が出る可能性は否定しないけれど。)

こういうところまでわかれば、冥想するしかないということになっていくように思う。

つまりこの二つの側面がそろわないと、真の悟りまで求めなければならないというモチベーションには、なかなかならないのではないか。


【チャクラと七つの身体−229】
◎アストラル体−98
2.アストラル体の性質−79
8. 死を忌避する文明-2 世界の転換へのモチベーション
(ザ・ジャンプ・アウト283)

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3535

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>