◎最高の光明
インドラの師匠プラジャー・パティは次のように語る。
『この肉身は死すべきものであり、死に捉えられている。しかし、それはこの不死で肉身のないアートマンの住処である。肉身を具えた者は実に好悪の二者によって捉えられている。肉身を具えている以上、好悪の二者を絶滅することは不可能である。しかし肉身のない者には、好悪の二者も触れることはない。
風は肉身のない者である。雲、稲妻、雷鳴など、これらの者も肉身を持たない。あたかもこれらの者があの虚空から上昇して、最高の光明に到達し、それぞれの形で出現するように、
まさにそのとおりに、完全な心の平静はこの肉身から上昇して、最高の光明に達し、自己の姿で出現する。彼は最高のプルシャで、彼はそこで食べ、遊び、女ども、車駕の類あるいは親類の者たちと戯れて歩き回り、付属物である肉身のことを思い出すことはない。彼はあたかも牛車が車に繋がれているように、まさしく生気(感官とその機能)はこの肉身に繋がれているのだ。
さて眼が空処(アートマンの住処としての心臓内の空処)に注がれている場合、それが眼のプルシャである。(感官としての)眼は見るためだけのものである。つぎに『わたしはそれを嗅ごう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)鼻は嗅ぐためだけのものである。
また『わたしはそれを喋ろう』と意識する者、それがアートマンである。(機能としての)言語は喋るためにあるにすぎない。また『自分はそれを聴こう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)耳は聴くためだけにあるものである。
次に『自分はそれを考えよう』と意識する者、それがアートマンである。(思考機能としての)意識はアートマンの神的な眼である。この神的な眼である意識によって、それはその欲望の対象を見て、満足する。
ブラフマンの世界にいる人々は、このアートマンを神として尊崇する。従って、彼らは一切の世界と一切の欲望を掌中に収める。このアートマンを見出して認識する者は、一切の世界と一切の欲望を達成する。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP229-230から引用)
更に
『余は、黒いものから斑色のものに逃避し、斑色のものから黒いものに逃避する。馬が(抜けたたてがみの)毛を振るい落とすように、悪を振るい落とし、月がラーフ(月を欠かせる悪魔)の口から逃れるように、余は肉身を振り払うて、自己を確立した余は、創造されたことのないブラフマンの世界に赴くのだ。赴くのだ。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP230から引用)
プラジャー・パティ(創造主)のインドラに対する説明は、次のとおりであるが、その説明を全体として見れば、
肉身を持つ人間は、好悪の感情の反映であるアストラル体を持つ。冥想により「完全な平静」を実現した時に、肉身を出て上昇し、最高の光明に到達して、その世界で遊び戯れるという、クンダリーニ覚醒の秘儀が示されていると見ることができる。 その後個別性を持つ自己の形で現れ・・・・と、帰還後の秘儀までほのめかす。
つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持ってその世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。
最後の比喩の、黒いものは、ブラフマンであり、無のこと、斑色のものはアートマンであり、有のことだろうと思う。
ブラフマンにあって、初めて一切の世界と一切の欲望たるアートマンを掌中に収めることができるが、ブラフマンとは、最高の光明のことである。これを人間個人、個我のことと考えると間違えるかもしれない。神が神を神している世界だから。
※『ブラフマンの世界にいる人々』という言い回しは、個なきブラフマンの世界に人々がいるはずはなく、食いつきを良くするための呼び込み文句みたいなものだろうか。
【チャクラと七つの身体-315】
◎アートマン-19
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-4
(ザ・ジャンプ・アウト369)
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インドラの師匠プラジャー・パティは次のように語る。
『この肉身は死すべきものであり、死に捉えられている。しかし、それはこの不死で肉身のないアートマンの住処である。肉身を具えた者は実に好悪の二者によって捉えられている。肉身を具えている以上、好悪の二者を絶滅することは不可能である。しかし肉身のない者には、好悪の二者も触れることはない。
風は肉身のない者である。雲、稲妻、雷鳴など、これらの者も肉身を持たない。あたかもこれらの者があの虚空から上昇して、最高の光明に到達し、それぞれの形で出現するように、
まさにそのとおりに、完全な心の平静はこの肉身から上昇して、最高の光明に達し、自己の姿で出現する。彼は最高のプルシャで、彼はそこで食べ、遊び、女ども、車駕の類あるいは親類の者たちと戯れて歩き回り、付属物である肉身のことを思い出すことはない。彼はあたかも牛車が車に繋がれているように、まさしく生気(感官とその機能)はこの肉身に繋がれているのだ。
さて眼が空処(アートマンの住処としての心臓内の空処)に注がれている場合、それが眼のプルシャである。(感官としての)眼は見るためだけのものである。つぎに『わたしはそれを嗅ごう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)鼻は嗅ぐためだけのものである。
また『わたしはそれを喋ろう』と意識する者、それがアートマンである。(機能としての)言語は喋るためにあるにすぎない。また『自分はそれを聴こう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)耳は聴くためだけにあるものである。
次に『自分はそれを考えよう』と意識する者、それがアートマンである。(思考機能としての)意識はアートマンの神的な眼である。この神的な眼である意識によって、それはその欲望の対象を見て、満足する。
ブラフマンの世界にいる人々は、このアートマンを神として尊崇する。従って、彼らは一切の世界と一切の欲望を掌中に収める。このアートマンを見出して認識する者は、一切の世界と一切の欲望を達成する。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP229-230から引用)
更に
『余は、黒いものから斑色のものに逃避し、斑色のものから黒いものに逃避する。馬が(抜けたたてがみの)毛を振るい落とすように、悪を振るい落とし、月がラーフ(月を欠かせる悪魔)の口から逃れるように、余は肉身を振り払うて、自己を確立した余は、創造されたことのないブラフマンの世界に赴くのだ。赴くのだ。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP230から引用)
プラジャー・パティ(創造主)のインドラに対する説明は、次のとおりであるが、その説明を全体として見れば、
肉身を持つ人間は、好悪の感情の反映であるアストラル体を持つ。冥想により「完全な平静」を実現した時に、肉身を出て上昇し、最高の光明に到達して、その世界で遊び戯れるという、クンダリーニ覚醒の秘儀が示されていると見ることができる。 その後個別性を持つ自己の形で現れ・・・・と、帰還後の秘儀までほのめかす。
つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持ってその世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。
最後の比喩の、黒いものは、ブラフマンであり、無のこと、斑色のものはアートマンであり、有のことだろうと思う。
ブラフマンにあって、初めて一切の世界と一切の欲望たるアートマンを掌中に収めることができるが、ブラフマンとは、最高の光明のことである。これを人間個人、個我のことと考えると間違えるかもしれない。神が神を神している世界だから。
※『ブラフマンの世界にいる人々』という言い回しは、個なきブラフマンの世界に人々がいるはずはなく、食いつきを良くするための呼び込み文句みたいなものだろうか。
【チャクラと七つの身体-315】
◎アートマン-19
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-4
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