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解脱の定義

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◎大乗の大般涅槃経

釈迦による解脱についての懇切丁寧な多種類の説明の中にアートマンへの言及がある。

『また解脱は恒常である。たとえば人々や神々の身体は壊れて死ぬが、解脱は変わらない。移り行くものではない。このように解脱は移り行くものではない。』
(ブッダ臨終の説法/田上太秀/大蔵出版P190から引用)

『また解脱には境界がない。たとえば集落に境界線がないように、解脱にも境界がない。それは虚空に限界がないのと同じである。

また解脱を見ることができない。例えば空中で鳥の飛んだ跡を見ることがむずかしいように、解脱を見ることは難かしい。また例えば人が自分のつむじ(頂上)を見ることができないように、解脱も同じである。未熟な修行者たちは見ることができない。

また解脱は深奥である。未熟な修行者たちは立ち入ることができない。それほど奥深いところが解脱である。またその深奥とは、諸仏や菩薩たちが崇敬するところでもある。ちょうど母父を扶養する孝行な子供の積んだ功徳は計りしれないほど深いようにその功徳の深さは解脱に喩えることができる。』
(上掲書P191から引用)

『また解脱を。感じ続けることができない。例えば幻を見つづけることができないように、解脱を感じつづけることはできない。

また解脱には肉体がない。人には傷や腫れ物やかさなどができるが、解脱にはこのような病がまったくない。無病が解脱である。』
(上掲書P192から引用)

『また解脱は私という考え、私のものという考えを離れている。』
(上掲書P192から引用)

『また解脱は善である。たとえば弟子が先生の教えにしたがって、それを善く学習すれば、それを善という。解脱もそれと同じである。
(上掲書P196から引用)

『また解脱はすべての世俗の生業を離れ、すべての苦しみを克服し、すべての幸せを味わい、永久にむさぼりや憎しみや愚痴を断ち、すべての煩悩の根本を抜き取った境地を言う。

また解脱は人々によって作られたものや世間のあり方に執着せず、すべての煩悩とはまったく無縁の善だけを生み出す境地である。すべての思想の活路を断ったのが解脱である。

その思想には、絶対神の分身であるアートマン(我)がある、アートマンはない、アートマンでないものがある、アートマンでないのではないものがあるなどという思想が見られる。私のいう解脱は、ものに対する執着を断つことを教えているのであって『我見』を断つことを言っているわけではない。この『我見』とは、仏性、つまりブッダになる可能性である。仏性こそ本当の解脱である。』
(上掲書P197-198から引用)

解脱は、私という個人というものを抜けたところにあるので、七つの身体で言えば、最後の個別性のコーザル体を抜けたところにある。

解脱の深奥とは、諸仏や菩薩たちが崇敬するところであるので、諸仏や菩薩そのものではない。だから諸仏や菩薩に出会うことが解脱ではない。

「解脱を感じ続けることはできない。」とは、非常に微妙な言い回しである。解脱を感じている自分があるのは、解脱に出会った時と解脱から出て行った時だけなのだろうか?解脱そのものである時は、感じ続けるなどというものすらもないのだろうと思う。

善なる世界とは、第六身体で、プラトン的にはイデアの世界のことである。それを産み出すものつまり、すべての煩悩とは全く無縁の善だけを生み出す境地が解脱であるとしているので、解脱は、第七身体(仏)のことを言っている。

この解脱についての列挙型の説明の一つ一つは比喩であって解脱そのものではないが、ひとつひとつ点検していくと、解脱のイメージが石材から彫刻を彫りだすように浮かび上がって来る。

最後のアートマンの言及は、「アートマンというものがある」という思想を戒めているものだと思う。

【チャクラと七つの身体-338】
◎アートマン-42
5.仏教 ◎解脱の定義
(ザ・ジャンプ・アウト392)

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