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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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十牛図のアートマン

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◎体験ではない何かが起きている
○十牛図 第七 忘牛存人

頌(廓庵禅師)
に乗ってもう家に到着することができた、
牛は姿をみせず、人ものんびりしている。
朝日が高く昇るころになっても、まだ人はゆめうつつ。
鞭と手綱は草屋に置きっぱなしである。

牛が消えてしまったので、人間の体験としてのアートマン(牛)はなくなった。アートマンとの一体化は、個人、個性としての自分のないところにある。
端的にこれを示したと思われる文がクリシュナムルティにある。

『今朝早く途方もない力と美と清廉さを感じながら目覚めた。それはたまたま起こった何か、過ぎ去った体験、夢の中でのこととして目覚めた時に覚えている体験といったものではなく、何か実際に起こっていることであった。人は何か完璧に清廉であるものに気づいた。その中では堕落して荒廃するいかなるものも存在し得なかった。

それはあまりにも測り知れなかったので、頭脳はそれを捉え記憶することはできなかった。そのような清廉さの「状態」が存在していると機械的にただ記録することができるだけである。

そのような状態を体験することは、大変重要である。それは限界を持たず、触れられず、入り込むことができずに、そこにあった。

その清廉さのために、その中には美があった。それは色褪せていったり、何か人の手によって作り上げられた美ではなく、美を装う邪悪さでもなかった。

人はその現存の中にいっさいの本質が存在することを感じ、従ってそれは神聖であった。それは何ものも滅びることのない生であった。死は清廉なものだが、人々はそれを、彼にとってまさに生がそうであるように、腐敗したものに変えてしまう。

それらすべてと共に、何ものも砕くことのできないあの山のように堅固で、どんな犠牲も祈りも美徳も触れることのできない力と強さの感覚があった。』
(クリシュナムルティの神秘体験/クリシュナムルティ/めるくまーるp47-48から引用)

個人の体験ではなく、何かが起こっている。しかし、それはそこにある。『その現存の中にいっさいの本質が存在する』とあるので、それは、無のサイドでなく、有のサイドだと考えるので、アートマンだと考えた。これが、十牛図忘牛存人の実況生中継だろうと思う。

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