◎君子は中庸す
喜怒哀楽が未だ起こらない前のもの、これが中である。これが未発の中。仏教でいう初禅から四禅までは、気持ちよかったり、楽しかったりするので、喜怒哀楽がまだ残る状態。従って未発の中とは、四禅までの色界のレベルを超えた無色界の冥想状態を想定していることになる。
仏教では、無色界の冥想にも空無辺処定などの数段階をもって分類しているが、四書の中庸では、そうした分類はない。分類をつけない理由はいくつか考えられるが、ここは、儒教は只管打坐型冥想のようなので、身心脱落に段階は問題にならないことから、段階を表明しなかったかと思う。
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という」という文に続いて、孔子が「君子は中庸す」とやっているので、中庸とは、極端を避け、真ん中のあたりさわりのない道を選ぶこと、などという下世話な解釈は当たっていないことがわかる。
つまり中庸とは、中(タオ・宇宙意識・ニルヴァーナ)と呼ばれる体験とは呼べない体験を軸にした人間のあり方である。最低でも見性はした人間
でなければ中庸はわからないだろうということ。
【チャクラと七つの身体-382】
◎ニルヴァーナ-10
3.道教・儒教-5 ◎未発の中
(ザ・ジャンプ・アウト436)
喜怒哀楽が未だ起こらない前のもの、これが中である。これが未発の中。仏教でいう初禅から四禅までは、気持ちよかったり、楽しかったりするので、喜怒哀楽がまだ残る状態。従って未発の中とは、四禅までの色界のレベルを超えた無色界の冥想状態を想定していることになる。
仏教では、無色界の冥想にも空無辺処定などの数段階をもって分類しているが、四書の中庸では、そうした分類はない。分類をつけない理由はいくつか考えられるが、ここは、儒教は只管打坐型冥想のようなので、身心脱落に段階は問題にならないことから、段階を表明しなかったかと思う。
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という」という文に続いて、孔子が「君子は中庸す」とやっているので、中庸とは、極端を避け、真ん中のあたりさわりのない道を選ぶこと、などという下世話な解釈は当たっていないことがわかる。
つまり中庸とは、中(タオ・宇宙意識・ニルヴァーナ)と呼ばれる体験とは呼べない体験を軸にした人間のあり方である。最低でも見性はした人間
でなければ中庸はわからないだろうということ。
【チャクラと七つの身体-382】
◎ニルヴァーナ-10
3.道教・儒教-5 ◎未発の中
(ザ・ジャンプ・アウト436)