Quantcast
Channel: アヴァンギャルド精神世界
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3535

只管打坐のポジショニング

$
0
0
◎ニルヴァーナではもうからない

最近話題の立松和平の「道元禅師」を読んでいる。正法眼蔵も中国の禅者の事蹟もしっかり調べてあるし、相当取材に時間をかけた労作であるように思う。

その中で、道元が京都での布教を事実上あきらめ、越前に主たる活動の地を遷す経緯が書いてある部分がある。

道元が後嵯峨天皇に奏聞した護国正法義の判定を比叡山の佐法師静明が行なったが、その判定は、要するに只管打坐の見解は縁覚の見解であって、仏教の正統的なものではなく、自分で見解を述べているだけの正統性が疑わしいものであるというものであった。

この結果、興聖寺は破却、道元は洛中から追放という措置となった。

天台の修行体系から見れば、道元のそれは、何種類かある三昧(冥想)手法のうちの一つだけを殊更に取り上げて修行するものだろうから、こういった判定が出るのももっともなことだとは思う。

本来問題とすべきは、手法ではなく、ニルヴァーナに到達できるものかどうかなので、道元の見解はそこからずれているとは思わないから、道元にとっても不本意なことではあったろう。

しかしニュータイプのものであって、本物の息吹のあるものは、本物であるがゆえに大体徹底的にやられてしまうもの。

クリシュナムルティは方法・メソッドを説かなかったので大ムーブメントになることはなかった。和尚バグワンは(只管打坐は説かなかったが)、方法を説いたので米国当局に弾圧された。

21世紀の宗教は個人的な宗教(アクアリアン)のはずだが、それに対する風圧は、無理解という形で強い。もうからないものは相手にしないという風潮が支配的なのだ。
【チャクラと七つの身体-385】
◎ニルヴァーナ-13
3.仏教-3 ◎只管打坐のポジショニング
(ザ・ジャンプ・アウト439)


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3535

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>