◎それは人間の心ではない
ダンテス・ダイジの詩から
「奥深い心」
すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない
人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない
人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している
それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない
また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ
だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す
(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)
一つの冥想手法として、こういう状態は、マントラ禅(南無阿弥陀仏などのマントラの念唱)によりマントラそのものに成りきるマントラ・シッディにおけるメンタル体におけるアナハタ・チャクラが開く体験だなどと説明することもできる。
クンダリーニ・ヨーガでいえば、個別人間の終わりであるコーザル体を抜けないとこの実感はないだろう。
バクティ型の、自分自身を神の御前にすべてを投げ出すタイプのものでも、これは起こるだろう。
しかし本当の他人のへの思いやり、親切、無私の愛などと言われる、この社会に足りないもののほとんどが、この非人間的な心の絶対を体験することなしには、わかるものではない。
ありがとうを何回も言う運動。漫然と繰り返すだけでは何も起こらない。そのままでは、個人的無意識の感情の部分をやや刺激する程度に終わる。
でも「ありがとう」というマントラに自分自身をすべて投げ出して、「ありがとう」になり切ればきっとそれは開けるだろう。でも使うマントラに制限はなく、「ありがとう」ではなく「エグザイル」でも「マック」でも「スタバ」でも、いつかは行けるところが摩訶不思議。「ありがとう」に成りきる、「エグザイル」に成りきる、「マック」に成りきる、「スタバ」に成りきる、どれも人間の気持という感情のことを言っているのではない。「奥深い心」のことである。
【チャクラと七つの身体-393】
◎ニルヴァーナ-21
5.ニューエイジ-1 ◎奥深い心
(ザ・ジャンプ・アウト447)
ダンテス・ダイジの詩から
「奥深い心」
すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない
人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない
人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している
それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない
また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ
だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す
(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)
一つの冥想手法として、こういう状態は、マントラ禅(南無阿弥陀仏などのマントラの念唱)によりマントラそのものに成りきるマントラ・シッディにおけるメンタル体におけるアナハタ・チャクラが開く体験だなどと説明することもできる。
クンダリーニ・ヨーガでいえば、個別人間の終わりであるコーザル体を抜けないとこの実感はないだろう。
バクティ型の、自分自身を神の御前にすべてを投げ出すタイプのものでも、これは起こるだろう。
しかし本当の他人のへの思いやり、親切、無私の愛などと言われる、この社会に足りないもののほとんどが、この非人間的な心の絶対を体験することなしには、わかるものではない。
ありがとうを何回も言う運動。漫然と繰り返すだけでは何も起こらない。そのままでは、個人的無意識の感情の部分をやや刺激する程度に終わる。
でも「ありがとう」というマントラに自分自身をすべて投げ出して、「ありがとう」になり切ればきっとそれは開けるだろう。でも使うマントラに制限はなく、「ありがとう」ではなく「エグザイル」でも「マック」でも「スタバ」でも、いつかは行けるところが摩訶不思議。「ありがとう」に成りきる、「エグザイル」に成りきる、「マック」に成りきる、「スタバ」に成りきる、どれも人間の気持という感情のことを言っているのではない。「奥深い心」のことである。
【チャクラと七つの身体-393】
◎ニルヴァーナ-21
5.ニューエイジ-1 ◎奥深い心
(ザ・ジャンプ・アウト447)