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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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仰山慧寂の発心

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◎異常心理と無私

仰山慧寂は、中国唐代の禅僧で、807~883年の人。武宗(840-846)の会昌の破仏に遭って寺を破却され、頭を布で隠して、民衆になりすましていた時代があった。六祖慧能の系流を継ぐ。

仰山は15歳の時に両親に出家を申し出たが、両親は許さなかった。
17歳になって仰山は再び出家を許してくれるように願い出たところ、両親はやはり躊躇していた。
その夜、近所の川(曹渓)から二本の白い光が立ち上がり、その家をまっすぐに貫いた。これにより両親は、この光は仰山の出家の志の現れであると認め、出家を許した。

そこで仰山は、左手の小指と薬指を断ち切って両親の前に置き、それまでの養育の恩に感謝を示した。後、韶州の南華寺の通禅師の下で剃髪した。

儒教的には、指を切る行為は親不孝である。自殺を行う心理が既に狂気であるように、こうした自傷行為を行うからには、すでに仰山も異常な心理状態にあったと見るべきだろう。

さて法華経の薬王菩薩本事品に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい=正しい智慧)を得ようと思うならば、修行者は手や足の指の一本を燃やして仏塔を供養すれば、それは山・林・河・池・珍宝を供養するよりまさる、などと書いてあるので、仏教的には指切りを正当な行為と見る人もいるが、そういうロジックの延長線上には、中米のチャックモールでの人身御供の肯定があるように思われる。

無私の極致は自分のすべてを与えるということだから、釈迦前生経(ジャータカ)にも自分の腿肉を切り与えたりするのが登場してくるので、指一本惜しむのは、論理的には、おかしくはないのだろう。

しかし人間には、霊と肉のバランスというのがある。霊側に偏すれば、そういう極端に走ることもあろう。けれども肉体なくして窮極の悟りには行かないということもある。このバランスは簡単なものでなく、とおり一片の理屈で説明しきれるほど簡単なものではないと思う。

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