◎舟の端に坐って坐禅
一休は堅田の華叟の下で禅修行していた時、いつも浜に停泊している漁師の舟の端に坐って坐禅した。
うるさく想った漁師がこれをいやがって、時に湯釜を叩いて邪魔をしたという。
来る日も来る日も舟の端に坐り続けた5月20日の夜の闇の中で、
鴉がカアーと一声泣いた。この時一休は大悟した。
翌朝、一休は自分の見解を華叟に呈示したところ、華叟は一休の大悟を認めたが、
「それは小乗の修行者(羅漢)の悟りであって、真の悟道者(作家)の境涯ではない」とひっかけ質問をしかけた。
一休は怒って、「これを羅漢の悟りとみるなら、それで結構」と言い放ったところ。華叟はそれでこそ真の悟道者だと認めた。
揺れる舟の上で悟れるものか。それを苦にしないほど深く入れたのだろう。雨の日はどこで坐っていたのだろう。一個の人間が死を賭して坐るのだから、雨が降るとか風が強いとかは寝言みたいなものだろう。とにかく坐ったのだ。現代人も坐れない理由はいくらでもつけられるので、とにかく坐る、だろう、
一休は堅田の華叟の下で禅修行していた時、いつも浜に停泊している漁師の舟の端に坐って坐禅した。
うるさく想った漁師がこれをいやがって、時に湯釜を叩いて邪魔をしたという。
来る日も来る日も舟の端に坐り続けた5月20日の夜の闇の中で、
鴉がカアーと一声泣いた。この時一休は大悟した。
翌朝、一休は自分の見解を華叟に呈示したところ、華叟は一休の大悟を認めたが、
「それは小乗の修行者(羅漢)の悟りであって、真の悟道者(作家)の境涯ではない」とひっかけ質問をしかけた。
一休は怒って、「これを羅漢の悟りとみるなら、それで結構」と言い放ったところ。華叟はそれでこそ真の悟道者だと認めた。
揺れる舟の上で悟れるものか。それを苦にしないほど深く入れたのだろう。雨の日はどこで坐っていたのだろう。一個の人間が死を賭して坐るのだから、雨が降るとか風が強いとかは寝言みたいなものだろう。とにかく坐ったのだ。現代人も坐れない理由はいくらでもつけられるので、とにかく坐る、だろう、