◎善きものは神ひとり以外だれもいない
マイスター・エックハルトは以下の文で善を定義する。しかし、この文には彼自身が神とのある合一体験を裏付けとして述べたと思われる部分がある。
それは、『神は自己自身を自己の起源とする』と『神を迎えたいと願う人の場合にあっては、神はすべての賜物の内にあるような神として自身を与える。』という部分である。
『さて、しかしながら神みずからが、「善きものは神ひとり以外だれもいない」などと語っている。
善きものとは何であろうか。みずからを分かち与えるものが善きものである。みずからを分かち与えて役に立つような人をわたしたちは善き人とよぶ。
それゆえに異教のある師は、隠者はそのいみで、善き人でも悪しき人でもないと語る。なぜならば彼はみずからを分かち与えることもしなければ、役に立つわけでもないからである。神は最も多くを分かち与えることのできるものである。いかなる事物といえども自分固有のものの内からみずからを分かち与えることはできない。
というのも一切の被造物は自己自身を起源とするのではないからである。被造物が分かち与えるものはいつでも、他から得たものである。それらはけっしてまた自己自身を与えることをしない。太陽は光を与えるが、しかし太陽自身はその場にとどまりつづけるし、火は熱を与えるが火のままである。
神はしかしながら自身を分かち与える。なぜならば神は自己自身を自己の起源とするからである。
神が与えるすべての賜物において神は何をさしおいてもまず常に自分自身を与えるのである。神はすべての賜物の内にあるような神として自身を与える。ただし神を迎えたいと願う人の場合にあってはである。
聖ヤコブは、「善き賜物はみな、上から光の源である御父から来るのです」(ヤコブの手紙一・一七)と語っている。』
(エックハルト説教集/岩波文庫P56-57から引用)
マイスター・エックハルトは以下の文で善を定義する。しかし、この文には彼自身が神とのある合一体験を裏付けとして述べたと思われる部分がある。
それは、『神は自己自身を自己の起源とする』と『神を迎えたいと願う人の場合にあっては、神はすべての賜物の内にあるような神として自身を与える。』という部分である。
『さて、しかしながら神みずからが、「善きものは神ひとり以外だれもいない」などと語っている。
善きものとは何であろうか。みずからを分かち与えるものが善きものである。みずからを分かち与えて役に立つような人をわたしたちは善き人とよぶ。
それゆえに異教のある師は、隠者はそのいみで、善き人でも悪しき人でもないと語る。なぜならば彼はみずからを分かち与えることもしなければ、役に立つわけでもないからである。神は最も多くを分かち与えることのできるものである。いかなる事物といえども自分固有のものの内からみずからを分かち与えることはできない。
というのも一切の被造物は自己自身を起源とするのではないからである。被造物が分かち与えるものはいつでも、他から得たものである。それらはけっしてまた自己自身を与えることをしない。太陽は光を与えるが、しかし太陽自身はその場にとどまりつづけるし、火は熱を与えるが火のままである。
神はしかしながら自身を分かち与える。なぜならば神は自己自身を自己の起源とするからである。
神が与えるすべての賜物において神は何をさしおいてもまず常に自分自身を与えるのである。神はすべての賜物の内にあるような神として自身を与える。ただし神を迎えたいと願う人の場合にあってはである。
聖ヤコブは、「善き賜物はみな、上から光の源である御父から来るのです」(ヤコブの手紙一・一七)と語っている。』
(エックハルト説教集/岩波文庫P56-57から引用)