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聖ボナヴェントゥラの意識の滅却

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◎わが魂は死の不安をえらび、わが骨は死をえらんだ

聖ボナヴェントゥラは、冥想による意識の滅却までについて、数段の段階を想定する。初段は一切の感性的認識像を無視する。次は無視ではなく、それら幻像から自由となる段階。最後は、認識するということからも離れる段階である。

最終段階については、「見ることも把握することもできないもののなかに没入する」、「見て見ない」などという表現で、その状態を推察することができる。この状態にこそ「善い事をして、悪いうことをしない」(衆善奉行)がでてくる根源がある。

『意識の滅却

まず最初に、聖ボナヴェントゥラの著作から、二、三の個所を引用することにしたい。彼は言う。

「霊は、完全な観想に達するために、浄化を必要とする。悟性が浄化されるのは、それが一切の感性的認識像を無視するときであり、さらにもっと浄化されるのは、悟性が幻像からも自由であるときであり、完全に浄化されるのは、哲学的推論から自由であるときである」

他の個所で彼はマタイ五・五の「悲しんでいるひとびとは幸いである。彼らは慰められるであろうから」によせて言う。――――
「『わが魂は死の不安をえらび、わが骨は死をえらんだ』と語れるひとだけが、それをうけとることができる。この死を愛するものは、神を見ることができる。それというのも、『神を見て生きられるひとはいない』というのは疑いようのない真実だからである。

そういうわけで、われわれは死んで暗闇のなかにはいろう。」彼が意味しているのは、平常的な悟性活動が完全に排除されていることを本質とするあの霊的暗闇である。第一の引用文もそれを意味しているし、坐禅で要求されることと一致している。

すでにニッサのグレゴリウスは、おなじ思想を表明していた。
「つまりこのようにして、その言葉がわれわれに教えているのは、はじめにあらわれる宗教的認識は、そのひとにとって光だということである。・・・・・しかしさらに発展して、霊がますますさきへ、ますます完全に真の認識の道をあるき続けて、観照に近づくほど、神的本質は見ることができないことを悟り、ますます明瞭にみとめるのである。

それというのも、霊はそこに見える一切をあとに残し、感覚がとらえるものだけでなく、悟性が見ているとおもっているもの一切をあとに残して、ますます深く内面に突き入り、ついには彼の霊の活動とともに、見ることも把握することもできないもののなかに没入するとき、そこに彼は神を見るからである。

というのも、その点にこそ求められていたものにかんする真の知の本質があるからである。
そして、それはすなわち見て見ないということである
探求の目標は、一切の知のかなたにあって、雲につつまれているように、不可解につつまれているのである。』
(禅と神秘思想/エノミヤ・ラサール/春秋社P104-105から引用)

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