◎大難を小難に
超能力のことになると、やっきになって否定したり、あるいは信じようとせず、トリック暴きにいそしむ人がいる。神仏についても同様であり、神仏は実在するなどといえば、非科学的だと批判されて議論が噛み合わないこともままある。これも戦後論壇などによる左翼的唯物論思考が蔓延したせいか。
ただ神仏実在についての議論は、信教の自由のもとに他人に宗教のことをとやかく言わないのが、日本の慣習なので、超能力についてほどのあからさまな否定的議論を、表だってすることはない。
また神仏実在については、大多数の人が黙殺か無視という態度であり、ここに日本人は実質無神論であると、外国の聖者たちに見抜かれる所以がある。
年始には神社仏閣に参拝し、葬儀、法事には参加している人が大多数であって、お布施もそこそこしているから、日本人は信仰深いなどというのは、ナンセンスである。
ほとんどの日本人にとって神仏とは、自分に対して何かメリットを与えてくれる親切な知らないお方であって、そのメリット期待で賽銭を投げ、お布施を渡す。
本当は神仏とはそうした世俗の功利を全く離れたところにあるものであって、そこから真の報恩感謝が起こる。その最初の一歩が誤っていることに気がつくには、一般的に人生上の苦悩、困難が要る。
こうした日本の危うい様をみて、「日本は良くなりすぎた」などと言われることになる。こうした国家的災厄の予感を感じつつ、大難を小難に収めていく手は、日々の冥想である。
超能力のことになると、やっきになって否定したり、あるいは信じようとせず、トリック暴きにいそしむ人がいる。神仏についても同様であり、神仏は実在するなどといえば、非科学的だと批判されて議論が噛み合わないこともままある。これも戦後論壇などによる左翼的唯物論思考が蔓延したせいか。
ただ神仏実在についての議論は、信教の自由のもとに他人に宗教のことをとやかく言わないのが、日本の慣習なので、超能力についてほどのあからさまな否定的議論を、表だってすることはない。
また神仏実在については、大多数の人が黙殺か無視という態度であり、ここに日本人は実質無神論であると、外国の聖者たちに見抜かれる所以がある。
年始には神社仏閣に参拝し、葬儀、法事には参加している人が大多数であって、お布施もそこそこしているから、日本人は信仰深いなどというのは、ナンセンスである。
ほとんどの日本人にとって神仏とは、自分に対して何かメリットを与えてくれる親切な知らないお方であって、そのメリット期待で賽銭を投げ、お布施を渡す。
本当は神仏とはそうした世俗の功利を全く離れたところにあるものであって、そこから真の報恩感謝が起こる。その最初の一歩が誤っていることに気がつくには、一般的に人生上の苦悩、困難が要る。
こうした日本の危うい様をみて、「日本は良くなりすぎた」などと言われることになる。こうした国家的災厄の予感を感じつつ、大難を小難に収めていく手は、日々の冥想である。