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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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梁の武帝の最期

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◎死にざまをコントロールできない

梁の武帝と言えば、達磨に「朕は、人を救い、寺を造営し、写経し、仏像を作らせた。どんな功徳があるだろう」と自慢げに問うたところ、功徳はないと一蹴された御仁である。

宗教教団の経営を考えれば、外護者のない宗教は、結局山に隠れてひっそりと命脈をつないでいくしかない。それを承知していればこその梁の武帝のこの質問だったろう。しかし、善行の見返りとして功徳を得るには、作法がある。悟っていない人間が功徳を得るのは、簡単ではない。

548年(太清2)8月,南予州刺史の侯景が反乱を起こした。侯景は羯族の出身,東魏からの投降将軍であった。反乱軍は寿春からただちに都の建康(南京)を突き,翌年3月,数ヵ月にわたる籠城のすえ、建康の台城は、兵糧も尽き、水源に毒を入れられた上、飢餓地獄と化して陥落。武帝は更に台城に幽閉されること2か月、武帝は失意のうちに86歳で憤死した。

この世のことはままならぬとはいえ、恐ろしい死を迎えたものだ。梁の武帝の仏教事業はだから無功徳などとは言うまい。覚者に一生に一度でも出会って言葉を交わすことですら稀有なる幸運というべきだろう。そしてこの世の功徳、果報は消費すれば尽きるもの。人はいつかは死ぬ。死にざままで、人は自分でなんとかできるものではあるまい。

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