◎帰る家がない
覚者の絶対的孤独感は、それが、絶対的であるがゆえに理解されにくい。
此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮
これは松尾芭蕉の句。これだけ読めば、宵闇漂う舗装されていない道を宿へと急ぐ自分の寂寥感の表出であるだけの句である。
ところが松尾芭蕉は覚者なのである。覚醒は、孤独の極みを通過して起こる。そしてまた覚者の感情はあまりにも当たり前の人間と同じように残っている。個の隣で全体と一致するということが起こるのだが、それは、強烈な孤独感を残す。
その孤独感は、あまりにも透徹していてあらゆる次元において独りであるという実感でもあるから、「帰る家がない」という嘆きにもなる。
国家や社会や家庭が荒れ果てていても、彼らに帰る家や故郷はない。
ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、
『帰る家がないからといって
家を求めてさ迷うには及ばない』とそろりと書いている。
こういうのを恩寵というのだろう。
覚者の絶対的孤独感は、それが、絶対的であるがゆえに理解されにくい。
此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮
これは松尾芭蕉の句。これだけ読めば、宵闇漂う舗装されていない道を宿へと急ぐ自分の寂寥感の表出であるだけの句である。
ところが松尾芭蕉は覚者なのである。覚醒は、孤独の極みを通過して起こる。そしてまた覚者の感情はあまりにも当たり前の人間と同じように残っている。個の隣で全体と一致するということが起こるのだが、それは、強烈な孤独感を残す。
その孤独感は、あまりにも透徹していてあらゆる次元において独りであるという実感でもあるから、「帰る家がない」という嘆きにもなる。
国家や社会や家庭が荒れ果てていても、彼らに帰る家や故郷はない。
ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、
『帰る家がないからといって
家を求めてさ迷うには及ばない』とそろりと書いている。
こういうのを恩寵というのだろう。