◎心と身体
クンダリーニ・ヨーガのピークは肉体死の状態からの復活というきわどいものであるが、その前段として本山博は、行の最初は肉体コントロールから入ると説く。
『行をしていて、たしかに今言った、眠りたい(休みたい)、食べたい、それから性的な欲望、この三つは非常に強いのです。それをコントロールする方法というのはなかなか難しくて、断食をしたり、菜食をしたり、一生懸命に水をかぶって、ともかく身体が参るようにする。
断食をするのも、眠らないのも、休みをとらないのも、菜食するのも、要するに物理的な次元での肉体の働きが弱まるように一生懸命に行をする。それであるところまで行ったら、今
度は身体というものを自由にコントロールできるようになるのです。
呼吸にしても心臓の動きにしても、いろいろな臓器の動きにしても、自分の心でコントロールできるようになる。すると心が身体というものにあまり関わらなくなってしまう。
身体があっても心は自由になれるわけです。
身体に心がひっついて動いている限りは、心は身体から自由でない。前回にも、息を止めたらわりあいに気やサイ(psi)のエネルギーがよく出るという話をしましたが、息を止めるということは、或る意味では身体の動きを止めるということなのです。』
(神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P107から引用)
呼吸では、空気を呼吸するかにみえるが、気を呼吸し想念をも呼吸する。止息とは、死の世界の入口であり、あらゆる行の入口である。ただし生兵法は大怪我のもと。クンダリーニ・ヨーガでは、正師につかなければ、廃人になるなど身の破滅になることがままある。
この行において、別れを告げるのは肉体だけではないのだ。
クンダリーニ・ヨーガのピークは肉体死の状態からの復活というきわどいものであるが、その前段として本山博は、行の最初は肉体コントロールから入ると説く。
『行をしていて、たしかに今言った、眠りたい(休みたい)、食べたい、それから性的な欲望、この三つは非常に強いのです。それをコントロールする方法というのはなかなか難しくて、断食をしたり、菜食をしたり、一生懸命に水をかぶって、ともかく身体が参るようにする。
断食をするのも、眠らないのも、休みをとらないのも、菜食するのも、要するに物理的な次元での肉体の働きが弱まるように一生懸命に行をする。それであるところまで行ったら、今
度は身体というものを自由にコントロールできるようになるのです。
呼吸にしても心臓の動きにしても、いろいろな臓器の動きにしても、自分の心でコントロールできるようになる。すると心が身体というものにあまり関わらなくなってしまう。
身体があっても心は自由になれるわけです。
身体に心がひっついて動いている限りは、心は身体から自由でない。前回にも、息を止めたらわりあいに気やサイ(psi)のエネルギーがよく出るという話をしましたが、息を止めるということは、或る意味では身体の動きを止めるということなのです。』
(神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P107から引用)
呼吸では、空気を呼吸するかにみえるが、気を呼吸し想念をも呼吸する。止息とは、死の世界の入口であり、あらゆる行の入口である。ただし生兵法は大怪我のもと。クンダリーニ・ヨーガでは、正師につかなければ、廃人になるなど身の破滅になることがままある。
この行において、別れを告げるのは肉体だけではないのだ。