◎砕霊と天国
再死とは、死後において死ぬこと
代表的なのは、古代エジプトであって、死後に再死すれば、霊魂「バ」が全く亡びてしまって現世に再生できないという考え方。
人は死ぬとオシリスの法廷に出廷し、そこで善悪テストをパスすると再び現世に復帰できる。ただしその人のミイラが残っていて、ミイラに虫食いや腐敗、損傷がないことが条件となる。
古代インドにも似たような考え方があって、死後に天国に入り永遠に安楽に暮らすのが良いとされていたが、その先には、死後における死、つまり再死または、現世への転生が想定されていた。再死した場合は先がないどんづまり。砕霊みたいな。
仏教の浄土系の考え方では、一旦は天国=浄土への転生を目指すのであるから、死後天国入りを目指すという考え方は、古代インド、古代エジプトと共通している。
ただ天国に入って、天人五衰し、再死せずともこの世に再生した場合でも、再度天国入りを目指して努力する一生を送るのか、本当にそれがベストな目標なのかという疑問は出てくる。
ここで、輪廻転生を苦とし、これを忌避して永遠を求める考え方が出てくる。古代エジプトではそこまで発達しなかったようだが、古代インドでは、ウパニシャッドにも永遠の命をテーマにした考え方がいくらでも出てくる。仏教のテーマも永遠である。
昔は大半の人が食べるだけで精一杯で生活が苦しかったので、来世の天国入りを目標とする宗教には実に説得力があったに相違ない。皆が普通に食べられるようになって、ようやく天国入りを目標にすることが疑問視されて、次のステージに進むということはあるのではないか。
無用の用、無為、タオ、禅の無など、世俗的に役に立たないことが真の価値であることを時代全体が前向きに評価するには、生活水準の向上と、冥想習慣の普及、価値のないものに対する見方考え方への共感が必要だと思う。
パリでは、同時多発テロ。移民と共にテロリストも入国してくる悪事例となった。昨今日本に流入する外国人の多くは反日教育を叩き込まれているが、日本は大丈夫なのか。
再死とは、死後において死ぬこと
代表的なのは、古代エジプトであって、死後に再死すれば、霊魂「バ」が全く亡びてしまって現世に再生できないという考え方。
人は死ぬとオシリスの法廷に出廷し、そこで善悪テストをパスすると再び現世に復帰できる。ただしその人のミイラが残っていて、ミイラに虫食いや腐敗、損傷がないことが条件となる。
古代インドにも似たような考え方があって、死後に天国に入り永遠に安楽に暮らすのが良いとされていたが、その先には、死後における死、つまり再死または、現世への転生が想定されていた。再死した場合は先がないどんづまり。砕霊みたいな。
仏教の浄土系の考え方では、一旦は天国=浄土への転生を目指すのであるから、死後天国入りを目指すという考え方は、古代インド、古代エジプトと共通している。
ただ天国に入って、天人五衰し、再死せずともこの世に再生した場合でも、再度天国入りを目指して努力する一生を送るのか、本当にそれがベストな目標なのかという疑問は出てくる。
ここで、輪廻転生を苦とし、これを忌避して永遠を求める考え方が出てくる。古代エジプトではそこまで発達しなかったようだが、古代インドでは、ウパニシャッドにも永遠の命をテーマにした考え方がいくらでも出てくる。仏教のテーマも永遠である。
昔は大半の人が食べるだけで精一杯で生活が苦しかったので、来世の天国入りを目標とする宗教には実に説得力があったに相違ない。皆が普通に食べられるようになって、ようやく天国入りを目標にすることが疑問視されて、次のステージに進むということはあるのではないか。
無用の用、無為、タオ、禅の無など、世俗的に役に立たないことが真の価値であることを時代全体が前向きに評価するには、生活水準の向上と、冥想習慣の普及、価値のないものに対する見方考え方への共感が必要だと思う。
パリでは、同時多発テロ。移民と共にテロリストも入国してくる悪事例となった。昨今日本に流入する外国人の多くは反日教育を叩き込まれているが、日本は大丈夫なのか。