◎老子−2
○老子第25章 有物混成
谷神は、世界樹の根であり、厳密に言えば現象を離れた見解ではなかった。老子第25章 有物混成では、老子は、タオそのものを直接説明しようとする。
『ここに一つのものがあり、それは形態的にはっきりと認識できぬようになっているものであるが、しかもそれは天地よりも先からあるものである。
それは、声のないものであり、象のないものであり、独立して、時間的に始めもなく終わりもなく存在しているものであり、あまねくこの世界のすみずみまでゆきわたり、その至らざるところがない。そして万物の母となっている。
私はその名を知らない。他人はこれを道と言っている。強いてこれを名付けるならば大と言いたい。(大は動きのないものなので)その大は逝くものといわねばならない。
逝くものは永遠の彼方に行くのであるから遠と曰ねばならない。しかし行きっぱなしでなく返るものなので、返と曰わねばならない。
この世に四つに大なるものがあり、道と天と地と王であり、世界四大の一つとして王がいる(王を道の体現者と見る)。人すなわち王の法は地、地の法は天、天の法は道、道の法は自ずから然り。』
道は始めもなく、終わりもなく、時間のない世界のことだから、通常人の日常感覚と遠く隔たった世界のことを語っている。道は、音もなく形もなく、あらゆる場所に存在しているから太母でもある。
更にタオはもともと言葉では表現できないが、大・遠・返を充てる。そして、この世に道が天として現れ、地として現れ、王として現れるのである。
つまりタオを体現した王として人間が存在する。これぞ道を生きる人間の日常性である。道を体現するとは、すなわち覚醒・大悟することである。
改めて老子の本質は、この部分にあると確信する。老子はあらゆる人間的営為とは別のところに基本を置いているのだ。処世術だの政治技法だのがメインではなく、それらは枝葉末節である。
![]()
悟りとは何か
○老子第25章 有物混成
谷神は、世界樹の根であり、厳密に言えば現象を離れた見解ではなかった。老子第25章 有物混成では、老子は、タオそのものを直接説明しようとする。
『ここに一つのものがあり、それは形態的にはっきりと認識できぬようになっているものであるが、しかもそれは天地よりも先からあるものである。
それは、声のないものであり、象のないものであり、独立して、時間的に始めもなく終わりもなく存在しているものであり、あまねくこの世界のすみずみまでゆきわたり、その至らざるところがない。そして万物の母となっている。
私はその名を知らない。他人はこれを道と言っている。強いてこれを名付けるならば大と言いたい。(大は動きのないものなので)その大は逝くものといわねばならない。
逝くものは永遠の彼方に行くのであるから遠と曰ねばならない。しかし行きっぱなしでなく返るものなので、返と曰わねばならない。
この世に四つに大なるものがあり、道と天と地と王であり、世界四大の一つとして王がいる(王を道の体現者と見る)。人すなわち王の法は地、地の法は天、天の法は道、道の法は自ずから然り。』
道は始めもなく、終わりもなく、時間のない世界のことだから、通常人の日常感覚と遠く隔たった世界のことを語っている。道は、音もなく形もなく、あらゆる場所に存在しているから太母でもある。
更にタオはもともと言葉では表現できないが、大・遠・返を充てる。そして、この世に道が天として現れ、地として現れ、王として現れるのである。
つまりタオを体現した王として人間が存在する。これぞ道を生きる人間の日常性である。道を体現するとは、すなわち覚醒・大悟することである。
改めて老子の本質は、この部分にあると確信する。老子はあらゆる人間的営為とは別のところに基本を置いているのだ。処世術だの政治技法だのがメインではなく、それらは枝葉末節である。


悟りとは何か