◎老子−3
○老子第7章 天地長久
老子においても、生きる世界が変われば行動が変わる。行動の変わり具合は、やはり悪を行わず、善を行うのである。
『◎老子第7章 天地長久
『天地は長久である。何故に天地がこのように長久であり得るかというと、それは天地がその存在にあたって、自分の為に生きようとしないからである。だからよく永遠に生きていることができるのである。
だからこの天地の道を体した聖人もまた、すべてのことにおいて、先ず自分のことは後にして他人を先立たせる。(だから却って他人から先だたされる。)またその身を外にして、即ち自分のことは考えないで、他人のために尽くす(だからその身を保つことができるのである)。
結局聖人というものには私心がない。それで結局その本来の自分、自己の本来を完全に生かすことができるのである。』
自分の利を思わず、他人に尽くし、他人のことをいつも先にするようであれば、私利私欲(邪心)はない。これでは、悪行を犯す暇(いとま)はない。
天地のように、自分のために生きようとしない、自分のメリットを求めない・・・・それは現代においては、非常識な生き方ではあるが、それこそが、タオ(道)を生きるという生きざまそのものなのである。
そういう生きざまはしばしば社会的不適応という影が差すのであり、タオに出会う、タオと一体となるなどで世界が大転換した後、この世で生きるリハーサルをしばし必要とする。そのことを禅では聖胎長養と称する。
老子でもこのリハーサルの困難さを説く段がある。(続く)
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悟りとは何か
○老子第7章 天地長久
老子においても、生きる世界が変われば行動が変わる。行動の変わり具合は、やはり悪を行わず、善を行うのである。
『◎老子第7章 天地長久
『天地は長久である。何故に天地がこのように長久であり得るかというと、それは天地がその存在にあたって、自分の為に生きようとしないからである。だからよく永遠に生きていることができるのである。
だからこの天地の道を体した聖人もまた、すべてのことにおいて、先ず自分のことは後にして他人を先立たせる。(だから却って他人から先だたされる。)またその身を外にして、即ち自分のことは考えないで、他人のために尽くす(だからその身を保つことができるのである)。
結局聖人というものには私心がない。それで結局その本来の自分、自己の本来を完全に生かすことができるのである。』
自分の利を思わず、他人に尽くし、他人のことをいつも先にするようであれば、私利私欲(邪心)はない。これでは、悪行を犯す暇(いとま)はない。
天地のように、自分のために生きようとしない、自分のメリットを求めない・・・・それは現代においては、非常識な生き方ではあるが、それこそが、タオ(道)を生きるという生きざまそのものなのである。
そういう生きざまはしばしば社会的不適応という影が差すのであり、タオに出会う、タオと一体となるなどで世界が大転換した後、この世で生きるリハーサルをしばし必要とする。そのことを禅では聖胎長養と称する。
老子でもこのリハーサルの困難さを説く段がある。(続く)


悟りとは何か