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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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覚醒して世界が変わる−20

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◎老子−4
○老子第10章 載営魄

古代中国で、悟っているかどうかが問題となるのは、君主と貴族だけである。よって老子は為政者向け啓蒙のスタイルをとる。この一節は、あきらかにタオ(ニルヴァーナ)を一瞥したか、道(タオ)人合一した人間を前提にした書きぶりであるから、覚者のこの世での適応、生きざまの問題を説いているように読める。

『○老子第10章 載営魄

私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。

この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。

民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。

道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』

○○することができるかという問いかけのスタイルで、あらゆるフリーハンドを持ちながら、それを敢えて行使することなく、道(タオ)から離れないで生きて行けるかと問う、強い書きぶりの連続で、インパクトがある。君主は世俗権力の王者だが、覚者は聖性・精神世界の王者である。そこでフリーハンドの方向は二重の意味を有する。

それは、なぜフリーハンドなのか。覚者にあっては、この世のことすべてについて自分の欲念を実現できる能力があって、かつまた自分が行ったとしても、そのことを恃まず、誇らず、恩に着せることもなく、能動的なコントロールすらもしない。これぞ究極の謙虚である。これを玄徳と称する。

無為を守るとは、これほどに、微妙なバランスの上に立っているが、それを天が許すところがある。それを呼び込むものが覚者の玄徳というもの。悟後の修行を聖胎長養というが、為政者にあっては、悟後といえども世俗のいろいろなことを避けるわけにはいかないから、当時の君主に対しては、こういうアドバイスが必要だったのだろうと思う。






悟りとは何か

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