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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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釈迦が妻子を棄てる

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◎天と地ほどの差

わがままで利己的な人間は多い。そうした人間が自分の持っているものを喜んで差し上げるまでになる姿は、天と地ほどの差がある。

釈迦。彼は只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを両方極めた稀有な人物。その彼にして、妻を迎えて生まれてきた子供にはラーフラ(障害)という名をつけて、子供は釈迦自身の求道生活の邪魔にしかならないと、極めて冷たい態度をとった。

今の時代でも突然妻子を棄てて、夜逃げ、雲隠れする夫は、人間としてどうかと疑問を持たざるを得ない。

釈迦本人の求道の熱望やみがたくまた厭世の感情的プレッシャーも相当なものがあり、妻子を棄てる決断に至ったのだろうとかの事情はなんとなく察せられるが、捨てられる妻子にとってはたまったものではない。先日、俳優の三国連太郎が亡くなったときに彼に捨てられた妻子の息子の方の表情がテレビに流れていたが、息子には言葉には出せないほどの無念さが感じられた。

釈迦にして、そこまで無常で、非道で、わがままな処世をする時期があった。結果的に大悟して九族昇天したからよいのではないかという打算的な説明はこのシーンには妥当ではないだろう。

大悟の前には自分を棄てる、自分をとりまくあらゆる宇宙を棄てる。大悟では自分が死ぬ、自分のあらゆる宇宙が死なないと大悟などない。だからその宇宙の一つのパーツである妻子も滅びる。そういうのは理屈の説明ではある。

大慈大悲、真善美、大歓喜、至福、そういうものはもとより人間に属するものではなく、神の側のものだろうと思う。

釈迦という一人の人間は、意識の極点で、妻子を捨ててジャングルの冥想生活に専心するという非道な対応をとった。近代西欧文明は,自意識の極点であるということはそういう人間が多いということ。

禅の六祖慧能も、老母一人を故郷に残し寺での修行に入った。慧能にとってそれは大いに心残りであった。

こうした利己的でわがままな人間が、ある日命の悲しみを知る人間に変わるのだが、こういうのを天と地ほどの差があるというのだろうと思う。口で言うのは簡単だが、それは常人にできることなのだろうか。

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