◎チャンスは長く続かない
人間の文明の最初は狩猟採集生活である。
生産力、獲得力が少なければ人間は一人で生きていくことはできないので、家族、血族単位で狩猟採集に必要な役割をその中で分担して、生きていく。狩猟採集で得られるものは乏しいので、家族、血族の集団的自意識が優勢であり、個人としての意識はあまり明確にはならない。
農業が始まると鍬やクワなどの道具が利用されはじめ、段々生産効率が上がって収穫量も増えていくと、それらの収穫物を個人で所有しておきたいという意識が出てくる。耕作に適した土地では、古代の4大文明のように為政者が生産物を収奪して都市・国家を成立させるほどに物が増えた。
要するに物がある程度増えないと個人性の自覚は発達しない。換言すれば、物が豊かになればなるほど人間の個人性は強まる。その一方で人間の社会性は弱体化していく。
戦後の日本社会では、最初は物の豊かさを追求してきたが、1970年代頃から心の豊かさも意識されるようになってきた。
ところが1990年代後半からの失われた20年により、物も豊かではなくなり、「子供の貧困」という言葉で象徴されるように国民全体が貧困化していることがはっきりしてきた。
この結果、孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活するというライフスタイルで暮らす人間が激増し、8人に一人が生涯でうつ病をり患するという精神を病むのが当たりまえの国になった。
孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活するというのは、自由気ままな人にとってはやや不如意な生活かもしれない。
しかし文明評価は何人悟った人を打ち出せるかであり、個人の評価は、自分が大悟できるかどうかであるという目で見れば、「孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活する」というのは、継続する冥想修行のためのライフスタイルでもあるのだ。
禅でも密教でも山の洞窟に籠ったり、個室に籠ったりして何か月か何年か孤独に冥想修行するエピソードはいくらでもある。いつの時代も冥想修行者は真摯であればあるほど乏しいものの中で修行してきた。こうした時代は逆に各人に与えられた最後のチャンスの時代であるとも思う。でもチャンスは長く続かない。
人間の数に比べて獲得できる動物の獲物や作物の数が多ければ争いは起こるものだ。それは物の方に問題があるのではなく、人間の方に問題があるからである。
人間の文明の最初は狩猟採集生活である。
生産力、獲得力が少なければ人間は一人で生きていくことはできないので、家族、血族単位で狩猟採集に必要な役割をその中で分担して、生きていく。狩猟採集で得られるものは乏しいので、家族、血族の集団的自意識が優勢であり、個人としての意識はあまり明確にはならない。
農業が始まると鍬やクワなどの道具が利用されはじめ、段々生産効率が上がって収穫量も増えていくと、それらの収穫物を個人で所有しておきたいという意識が出てくる。耕作に適した土地では、古代の4大文明のように為政者が生産物を収奪して都市・国家を成立させるほどに物が増えた。
要するに物がある程度増えないと個人性の自覚は発達しない。換言すれば、物が豊かになればなるほど人間の個人性は強まる。その一方で人間の社会性は弱体化していく。
戦後の日本社会では、最初は物の豊かさを追求してきたが、1970年代頃から心の豊かさも意識されるようになってきた。
ところが1990年代後半からの失われた20年により、物も豊かではなくなり、「子供の貧困」という言葉で象徴されるように国民全体が貧困化していることがはっきりしてきた。
この結果、孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活するというライフスタイルで暮らす人間が激増し、8人に一人が生涯でうつ病をり患するという精神を病むのが当たりまえの国になった。
孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活するというのは、自由気ままな人にとってはやや不如意な生活かもしれない。
しかし文明評価は何人悟った人を打ち出せるかであり、個人の評価は、自分が大悟できるかどうかであるという目で見れば、「孤立した個人が乏しい物の中で逼塞して生活する」というのは、継続する冥想修行のためのライフスタイルでもあるのだ。
禅でも密教でも山の洞窟に籠ったり、個室に籠ったりして何か月か何年か孤独に冥想修行するエピソードはいくらでもある。いつの時代も冥想修行者は真摯であればあるほど乏しいものの中で修行してきた。こうした時代は逆に各人に与えられた最後のチャンスの時代であるとも思う。でもチャンスは長く続かない。
人間の数に比べて獲得できる動物の獲物や作物の数が多ければ争いは起こるものだ。それは物の方に問題があるのではなく、人間の方に問題があるからである。